音のカタチ

(音楽を聴く人には心の中から求める音がある)

同じ音楽にも異なる音がある

もう、ずいぶん昔になりますが、友人の家で新しいアーティストの話題をして盛り上がっていたときのことでした。友人が、さっとかけてくれたそのアルバムの音を聴いて、ちょっと気になることがありました。

「ね、音の出し方、変わったんじゃない」
「そうなんだよ、最近さ仕事が大変でね、分析的な音を聴きたくないんだよ」
「やっぱりねー、そういうことってあるよねー」

やがてわかったことなのですが、同じ音楽を聴いていても、聴きたい音に変化があります。
日常の仕事に追われていたり、大変なことが継続していると、やさしい音を聴きたくなります。また、音楽もそうした音に合うようなものを好むようになります。クラシックが好きな人でしたらモーツァルトとかバッハとかなんかです。
日常に余裕がありすぎたり、なにをしていてもいい時間が長過ぎると、メリハリの利いた厳しい聴き方に合う音を聴きたくなります。結構分析的な音の傾向が強くなります。クラシックが好きな人でしたら、ベートーベンとか、ワーグナーなんて是非聞きたいのではないかと思います。
面白いもので、音楽の趣味が広がるきっかけとは、このような心の揺らぎがキーワードであったりします。私がモーツァルトを聴いて楽しいと思えるようになったのは、やはり、ちょっと仕事が大変になり、心がバランスをとるために必要な音楽として、もともと嫌いであったのに、好んで聴くようになったことでした。
困ったことに、心の揺らぎごとにステレオを買い換えてしまう場合がまま見られます。これがあったら、いくらお金があっても足りるものではありません。それほどに心は揺れるものだからです。幸いに、心の揺らぎに対応することは、機械の買い替えなどをしなくても、ステレオの鳴らし方の変更で十分に対応できます。逆に、音の好みの変化について自分に気づくようになると、バイオフィードバックみたいなもので、自己管理の指針になります。
また、ある水準を越えた音の出し方をするようになると、心の変化に合わせて聴こえ方が違ってくるようにもなります。つまり、音の中に聴きたい音がすべて含まれており、心の中で聴きたい音を選別できるような水準の音があるのです。このように書くと不思議に感じられるかもしれませんが、聴きなれたはずの曲なのに、ちょっと聴いた音楽に心を打たれる経験って多くの人にあると思います。そして、そのときに聴いた音楽は、いつものままであったりします。同じことが、注意深く聴き込んでいても、おきるように出来るのです。心が求めるすべての音を出すことで、限りなく豊かに音楽を楽しむことができます。このような音の出し方は、ステレオの鳴らし方のひとつの指針でもあります。

感性で音を聴く人、理屈で音を聴く人

音楽を演奏する人は、音楽を聴くときに陥りやすい間違いがあります。それは、演奏を技術として聴く習慣が、音楽を感性で捉えることを超えてしまう場合があることです。
昔、宮沢明子脚注 1がNHK教育テレビで子供のためのピアノ教室を行ったことがあります。宮沢明子は、テクニックの不備よりも全体的な音楽性を優先する指導をしました。そして何回目だったか、子供が自分の師事している先生から質問を預かってきました。その質問がそのまま放送されました。

「先生から、まちがった演奏を正さずに演奏を続けてはいけないといわれました」
子供はちょっと泣きそうでした。
「みなさんの手はまだ大人になっていません。だから、音楽を楽しく演奏できるほうが大切なんです」
宮沢明子はやさしく諭していました。

結構昔なので、うる覚えなのですが、そんな話題でした。おそらく言葉は正確ではありません。ちなみに、この発言をした子は次回から参加していなかったと思います。師事している先生から、参加を禁止されたのでしょう。しかし、生放送ではないわけで、NHKもわざとそうしたやり取りを放送したのはえらかったと思います。心有る人であれば、宮沢明子の正しさは明らかだからです。
音楽を演奏する人にとって、技術には白黒が明確に着きますが、感性には白黒がつけられないので、除外したくなるのです。別に不思議なことではありませんが、本末転倒であることはだれの目にもあきらかです。
音楽を行う人が、感性よりも技術を優先して評価するために、人気のある浜崎あゆみのような音楽を受け止められなくなってしのまうのだと思います。しかし、ビートルズが登場した時にその価値がわかった人たちは、音楽家ではありませんでした。現代において、その価値を認められない人は・・・ないのにです。ま、浜崎あゆみの曲がビートルズのように曲として長く愛されるのかは私にはわかりませんが、アルバムは愛されつづけるだろうなと思っています。新約聖書に曰く「はじめに来た者は、最後になるであろう」、結局素直に受け止められる自由さがなによりも大切です。
おなじ事が、ステレオの音にもあります。理屈で鳴らす人と、感性で鳴らす人がいるのです。実は、どちらを入り口にしても、ステレオの鳴らし方の行き着く場所はそう違いが無いのですが、問題は理屈のほうが感性に追いつけないことが多いことにあります。
たとえば、一般的なステレオは20Hz〜20KHzの信号を再生できれば良いのですが、このような周波数帯では、接続ケーブルの種類の違いで明確な差異を周波数特性としては測定できません。しかし、実際には、接続ケーブルで音が激変してしまうのにです。ここに落とし穴がある(と思っている)のですが、周波数特性の違いだけでは、ケーブルの音の変化はわからないのです。私の知人で、高齢のため10KHz以上が聴こえない人がいるのですが、そうした人でもケーブルの音の違いはよくわかります。人の耳が音を識別する能力は、極めて高い点があるのです(鈍感な点もあるので、判断に困りますが)。
実のところ、ケーブルによる音の違いのメカニズムは、今の技術や研究では正確には理解できていませんが、わずかな位相特性や周波数特性の違いが、室内に音として放射されたときに、強調されているのか見知れませんし脚注2、人のパターン認識のメカニズムがわずかな相違点を聞き分けているのかも知れません。ひょっとすると、その両方かもしれませし、ぜんぜん別な理由なのかもしれません。
音がケーブルで変わる話はそれまでとして、本題に戻りますが、理屈として特性の違いが測定に出しにくいことから、音は違わないと信じて音楽を聴く人がいます。人の脳とは凄いもので、そう考えていると違いがわからなくなる場合すらあります。また、ひどい音でも聴きなれてしまうと平気になるようにもなります。このように、音の価値を間違ってしまうようになることを「耳が腐る」といいます。たいへんまずい状態です。いいきっかけがないと、直りません。笑い話ですがオーディオ機器の設計者にけっこういらっしゃるみたいです。ま、もともと音楽が好きでなったわけではない人たちが多い脚注3のでしようがないのですが。
理屈を優先すると、耳が腐る原因になりますし、いろいろな新しい発見をする機会を失いようになります。心の自由さが、音を受け止めるために大切です。

心は自由でも、求める音がある

すでに述べたように、心の状態により、聴きたい音に傾向が生まれます。ですから、心が自由であっても、聴きたい音には一定の幅があります。
これと似た話題ですが「なぜ美人ばかりが得をするのか ナンシー・エトコフ著 木村博江訳」を読んだときに、人種に関係ない美人の原型が人の中にあることを説明していました。そのキーワードは、平均、でした。いろいろな人の顔を平均化した姿が、美人の基本である可能性を紹介していました。これは音についてもいえるように思います。様々ないい音を聴くほどに、音の基準と聴きたい音が明らかになってくるからです。そして、そうした基準は、心を白紙にすると明確に自分の中に現れてきます。
もっとも、音楽や演奏に対して、全くの白紙で考えるというのは、実は簡単ではありません。禅に曰く、半眼を明けて心を空にする、なんて簡単に出来ないので、チンプンカンプンな禅問答が必要になります。集中することで、他のことを考えられなくするわけです。でも、音楽を聴くのに禅問答は役に立たず、詰まるところ、音楽や演奏に対する考えと思い入れが大切になります。このときに大切にしすぎてはいけないのが、ステレオの技術論なわけです。また、演奏技術や作曲技術も音楽を聴く側にとっては重要ではないように思います。あらゆる技術の話題は、自由な心を縛り付けてしまうからです。
「この音楽の聞こえ方は違うな」と自然に感じるのが、求める音のある状態です。
この、求める音は、基準が心の中にしかありません。音の違いを客観的に評価することは極めて困難です。笑い話なのですが、録音し音楽を生で演奏した音と比較して、評価するという方法の話題があります。マイクで音を録る難しさ脚注4も無視した方法ですが、これで差がないように再生されれば、よほど音を捻じ曲げたことになってしまいます。しかし、もっと自然に考えれば、そんな比較をしなければわからない違いであれば、たいした違いではありません。気にするほどのこともないのではないでしょうか?
求める音は、心の中に自然と生まれます。ですから、そうした時がくるまで、別に気にする必要も無いと思います。
でも、ある日、なんか違うなと感じたとき、それが音のカタチを定め直すときです。
音のカタチを操るとき、音楽はその姿を大きく変えて、深くあなたの中に入ってきます。そう、心が音の違いを教えてくれるとき、それは音楽の本質に深く切り込む必要があることを示しているのです。それを楽しむ趣味、それがオーディオです・・・。

私の音のカタチを巡る歩みはオーディオの遍歴に書いてみました。


脚注1

桐朋出身のピアニストで国際的に高い評価を受けているピアニスト、もう海外に移住して長いです。移住した理由は旦那さんの国がベルギー(だったかな?)であるためですが、背景には音楽界にあった嫉妬と桐朋蔑視に基づくいわれない中傷の嵐があったことは知る人ぞ知る話題です。○○の愛人とか、下卑た話題で中傷していました。素直なお話し、ここでご紹介したエピソードの背景にはこの辺の話題もあります、きっと音大出身の先生だったのでしょう。似た話題で、世界で高く支持されている小澤征二氏のはじめてのコンテスト出場は、必要な大使館の推薦状が日本大使館ではなくアメリカ大使館であったというものがあります。小澤氏も桐朋出身であったため、権威主義の外務省は推薦状すら出さなかったのです。日本の音楽界の権威の失墜は、NHKの主席バイオリニストだった海部氏による汚職失脚が表面化のはじまりのように思いますが、今でも音楽界は権威主義的です。

脚注2

似た話題なのですが、音の出し方を調整する最後の段階でスピーカーを数センチ刻みで位置決めする、というのがあります。これは、ちょっと理屈で考えると、なにを細かい、と思うのですが、実はとても大切です。凄く違いがあるのです。そして、周波数特性や位相特性を調べると、実は劇的に特性が変わっていることがわかります。ちっとも細かいことではないのです。経験的には、耳で選んだスピーカーの位置が、測定した結果でもいちばんスピーカーの特性を出せる位置でした。面白いのは、測定だけで調べると、他にもいい位置があるのですが、聴いてみると変だったりします。測定した特性なんて、室内であれば所詮ははちゃめちゃになるので、どのような特性がいいのかは、結局聴かなきゃわからないんですね。

脚注3

大抵のオーディオ機器の設計者って、大学をブランドで選んで、成績の成り行きで理工系で電子工学とかやって、会社をカタログで選んで入社するわけですから、人生の始まりから間違ってるんじゃないでしょうか。ミュージシャンならなりたくてなるわけだから、大違いですよね。

脚注4

だいたい、楽器の音って聴く場所でぜんぜん違う音になります。マイクの位置と同じ音しているかどうかなんて、そう簡単に識別できません。楽器の場所にスピーカーを置いて、マイクの位置で聴かなければ、比較にもならないからです。でも、そんな滑稽なことできませんよね。



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