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音楽のカタチ
(現代の音楽には物身がある)

残すことができなかった音楽の姿

おそらく、人との歴史と音楽は、人と言葉の歴史と同じだけかそれ以上の永さがあるのでは無いでしょうか?美しい野鳥のさえずりなど、野生には様々な音に満ち、そうした中にある人で、音とその意味のある鳴り方にたいして意義を認めないはずは、ないからです。かつては神の声を見出していたかもしれません。また、人の口が発する音を意識が意味として捉えれば、それは言葉に発達し、様々な音を感性が感情として捉えれば音楽となります。そして、言葉と音楽が結びつき、歌へと発達することも当然の成り行きだったでしょう。
古い仏典(紀元前5世紀以前だったかな)には、仏陀の教えを音曲を以って伝えるという記録がたくさんありますが、人が文字を知ったときにすでに音楽はあまねく世界に行き渡っていたはずです。あらゆる地域(国という概念は人の歴史の中では比較的最近の考え方です)で、独特な楽器や音楽が生まれ発達したのではないでしょうか。
このような音楽の長い歴史の中で、音楽は発達を遂げてきましたが、楽器を使った音楽は長い間特定の人々に独占されていました。というよりも、保護されていました。社会がそれほどに豊かではないために、生きることに必須ではない楽器や専門的な音楽の知識の積み重ねは、豊かな社会階層により保護される必要があったからです。現代にクラシックとして知られている音楽のすべては、貴族により保護され発展したものであり、これは現代に至宝として知られているすべての芸術に共通の社会的な構造でした。ヨーロッパでの民衆の芸術のほとんどは知られていません(日本では多くが残されているので対照的ですね)
そうした中で、音楽は絵画や彫刻よりも文化的に存在させるためには不利な点がありました。音を形にすることができなかったのです。そこで発明されたのが音符ですが、音符の歴史は文字よりも後であり、かなり最近のものです。現代に伝え知られている最古の音楽も、絵画や彫刻と比べれば決して古いものではありません。私たちが映画で見ることができるローマ時代のシーンの音楽など、すべて作り話です。ヨーロッパで古楽として再現されている古い音楽は17世紀のものであり、僅かなスクリプトと絵画や壁画にある楽器の姿から復元した復刻楽器により実現されているものです。世界でも稀な一貫した文化継承をもつ日本にすむ私たちは、雅楽など古の音楽を身近に知ることができますが、それをもってしても文字よりも歴史が短いことはあきらかです。

音楽を形として残す

音楽を形を持って残すことは、音楽がより新しい世界に向かうために必須なことでした。それを達成したのは、エジソンです。厳密には、同時多発的にいろいろな発明が行なわれました。いずれにしても、あらゆる音を記録できる技術が生まれたのです。レコードは物質を切り刻んで音を記録します。磁気録音装置は、音を磁気記録として記録します。やがて、デジタル技術の進歩により、音を符号化することに成功し、私たちが今日常に使用しているCD、MDやインターネット経由の音を自由に駆使できるようになりました。
音楽が得た「形」は、音楽というものに根本的な変容を求めます。その理由は音楽の経済活動の側面にあります。経済活動として捉えると、音楽とは長い間にわたって、作曲や演奏に対する謝礼を得ることができるだけでした。ですから工賃と技巧料金のようなものであり、経済的な単位としてはもっとも効率が悪いものです。ですから、音楽は人としてのたしなみではあっても、職業としてはごく最近まで、おそらく200年位前までは、社会的に最下層の人々の仕事でした。しかし、EP/LPレコード以降、音楽は形ある大量生産が可能な生産品となりました。音楽は、摩滅しにくい(EP/LPはともかくCD以降は非接触なので摩滅は無いですね)消耗品へと進化したのです。これは音楽を貶めることではなく、音楽に本当に必要な進歩がもたらされたことを意味しています。

形を持った音楽は広く人々に開かれた

現代において、音楽の無い生活は存在しないといっても過言ではありません。音楽はあらゆるところに満ち溢れています。これは、現代の技術が成し遂げたひとつの文化的偉業であり、つい数百年前まで自分たちで作り出す音楽しか知りえない人々が、専門家により洗練された音楽をいつも楽しめるようになったのです。
もちろん、人の社会が豊かになったこともその背景にあります。ここ数百年の歴史を辿れば、西洋、東洋を問わず、社会の中のかなりの階層の人々が音楽を「たしなみ」としています。武を以って知られた織田信長ですら自ら鼓をたしなんだと言われています。
しかし「たしなみ」としての音楽は、音楽を体現するためのものであり、楽しむためのものではありません。日本では小学校から音楽教育が行なわれていますが、これは世界的には稀有な教育体系であり、欧米で音楽教育が義務化されている国は多くはありません。もっとも、ここで述べたように、音楽を体現するための教育であるために、学んだ音楽を子供たちが好きになるのかどうか、私には自信がありませんし、現代の音楽の表現方法からすると、ちょっとかけ離れているようにも思います。私の思い出を素直に述べると、小中学校の音楽の時間は、苦痛でした。クラシック嫌いの大量生産みたいに思っていました。
いずれにしても、音楽にCDなどの物理的な形を付与することができるようになった今、音楽とはだれにでも楽しめる、生活の一部となったのです。また、音楽家には謝礼ではない形で経済的な活動が可能となりました。充分な経済効果が達成されたことにより、より大きな投資が可能となります。その投資は現代の科学技術と結びつくことにより、音楽を生み出すための高度な電子楽器や録音/編集設備の発達を促し、現代の音楽の基盤を急速に形作りました。ここ20年で急速に発達を遂げた新しい音楽を実現する機器は、もはや私たちの日常のものとなりました。クラシックと邦楽を除いて、pa無しに演奏することのほうが少ない現代の音楽は、過去の音楽と本質的に相違点があります。演奏技術において、過去に大切であった大きな音を出すという最も困難な技術の習得は、今では必要なくなってしまったからです。日本のジャズシンガーの多くはマイクにかじりついて唄っていますが、そうした姿は、過去には想像も出来ないことでした。マイクがなければ唄えないのですから・・・。

録音された音楽と演奏する音楽は全く別なものである

現代の音楽の歴史は、録音が可能となった後急速に発達したものです。人が長い歴史の中で音楽の形を急速に進歩させたのは20世紀であり、厳密には第二次世界大戦終了後です。磁気録音装置が開発され、音の編集が可能となったからです。次に大きな発達を遂げたのは、デジタル技術が進歩してからであり、ここ20年のことに過ぎません。
このように急速な発達を遂げた音楽の形は、音楽についての認識を新たにすることを求めているのですが、あまり多くの人はそのことに気づいていないように思います。つまり、旧来の演奏を主体とした音楽と、録音された音楽とは全く別個のものであり、それぞれに楽しみ方が本質的に異なるということです。
私がここで述べていること、つまり音楽の形の相違があまり理解されていないということに気づいたのは、本当にちょっとしたことでした。テレビで安室奈美恵がインタビューに答えている内容を聞いて愕然としたからです。ちょっとうる覚えなのですが、

「もう、すばらいしい成功を収められて、お気持ちはいかがですか?」
「私もやっと’あーちすと(わざとこうした言い方をするのがお洒落なのだと思います)’とになれたと思っていたんですが、歌っているだけで’あーちすと’ではないってある人から言われたんです」

このある人って、今の旦那さんだと思うのですが、当時でも聞いただけでその人とは深い関係だろうな思わせる言葉でした。ま、それは別として、私がなぜ愕然としたかというと、安室奈美恵の歌は小室哲也が作りプロデュースしていたわけですが、彼女でなければ実現できないものであり他の個性では表現できないと私は考えていたからです。それなのに彼女は、歌っているだけであり「あーちすと」ではないという言葉に納得してしまっている・・・。本当に驚きました。このことは、現代のアーティストという言葉の意味を考えさせるものでしたが、また、私がいろいろなことに注意を払うきっかけになりました。当時の私は華原朋美もお気に入りでしたが、どちらもアルバムが売れている割に音楽に詳しい人の評価が低いという特徴がありました。こうしたことと裏返しに、これらのアルバムが売れている本当の理由は小室哲也が売り込みがうまいせいだなどと、散々なことをいろいろな経路で聞いたものです。いちばん驚いたのは、ネットワークで見つけたとある会議室が、彼女たちが売れているのはまったくおかしな現象であり、自分たちのネットワークでは全く評価していないと公言しているのを読んだからです。つまり、彼女たちのCDを買うほうが、音楽を知らないんだという、醜い主張でした。
私はオーディオの趣味を続けていたため、そのような主張に近い話題をよくオーディオを趣味にしている人たちから聴いていました。日本のオーディオを趣味にしている人たちの多くは、クラシックやジャズしか聴かないんです。で、そういう人たちからすると、私が見て驚いたネットワークの会話で高く評価している(あまり売れていないけども素晴らしいと評価している)音楽ですら、相手にされません。それもジャンルが異なるからではなく、それらの音楽の低俗さ故にです。「ぽぴゅら〜?、JPOPS?そんなすぐになくなるような音楽なんて、時代の裏返ししか意味がないだろ〜。5年もしたらだれも覚えてないぜ〜、聞く価値なんてあんの?」て感じでしょうか・・・。だから低俗・・・なんです。こういうのは、先の話題と、論点は同じなのです。なにか低俗さを指摘できる理由を見つけて、貶めているだけのことです。

全く異なっている現代の音楽の形

現代の音楽を行なう人々は、昔の音楽観に基づく、いわれない感情論の多くに取り巻かれていると思います。つまり、アーティスト信仰です。音楽家をアーティストと呼ぶのって最近のことなのですが、なんか昔からそうだと誤解しているみたいです。そして芸術家とは群れることがないわけで、自分ですべてをやりたくなります。その気持ちに負けて、もともとひとりでは実現し得ない現代の音楽の形を、ひとりで行なっているという形に無理やりしようとする、不可思議な、できるはずの無い、自滅へ通じる道に向かう原因となっていると思います。いろいろなアーティストが、自分のカラーを明確に出そうとして、そして飽きられていきます。自分の音楽に、様々なアーティストや技術者の支援が大切であったことをつい忘れてしまい、作り上げる音楽の水準を下げてしまうからです。録音されている音楽とは、演奏を単に記録している音楽ではありません。
録音されている音楽が演奏を記録するだけであったのは、LPが開発されたごく初期までであり、現代では全く違う形で作られています。歌を考えても、バックの演奏は別個に記録されることも多く、スタジオで歌手が録音するときに、バックの音楽家が同時にいることは多くありません。これを編集したり再加工して音楽を完成させます。このようなライブの音楽との形態の違いは、音楽の形態に大きな影響を与えないはずもなく、それぞれに最適な形へ発展を遂げています。
録音されている音楽は、別個に音楽ソースを記録できるために、場合よっては作曲家が自身のシンセサイザーですべての音を作り出してしまう場合もありますし、他の音楽家の音をや声を材料として、再加工して音楽に組替えることもできます。逆に、たったひとりですべての楽器を演奏し音楽に組上げることもできます。たとえば世界的に高い評価のあるEnyaの音楽は、彼女とごく一部の人たちだけで作り上げられており、逆にライブで演奏することは不可能となっています。多重録音が行なわれているからです。また、多くの録音されている音楽は、それ自体が音楽作品として完成しているものであり、ライブ演奏をおなじように行なうことは不可能に近いものが少なくありません。バックコーラスも本人が歌っているアルバムはけっして少なくないわけで、そうした曲はライブ演奏の際にバックコーラスの人選を難しくしていると思います。また逆に、録音された音楽として高い完成度がなければ、アルバムは、高い評価を得ることはできないでしょう。
演奏する音楽は、演奏家とPAの技術者、そして設備があれば実現できます。また、クラシックや邦楽であれば、それなりのホールで演奏することで、演奏家だけで実現できます。もともとはジャズはPAはボーカルにだけ必要でしたが、録音されている音楽が実現しているような音の大きさの自由度を得るために、また、電子楽器の出力や音色に対応するために、現代ではPAは不可避です。わたしは、音が悪いのでPAはあまり好きではないのですが、音楽家としてはやむを得ないのではないでしょうか。もっともマイクに口を押し付けて歌うJazzシンガーは、さすがに受け入れがたいものを感じます。地の声が大切なJPOPや、肉声では音量が足りないためどうしようもないロックでしたらやむを得ないと思いますが、Jazzシンガーの場合は声量の無さは歌う資格がないと思ってしまいます。ちょっと余談に逸れましたがPAの普及は、録音されている音楽が、ライブで演奏する音楽に強く影響していることだと思います。ただ、ライブの音楽は完成度では録音にかなうことはできません。しかし、ライブのもつ雰囲気が音楽に加わり、実に楽しいものとなります。特に演奏家の満足度は凄いと思います。なにしろ、聴くほうがちょっとたいへんな演奏でも、演奏家はすごくうれしそうですから。
このような違いは、録音されている音楽とライブによる音楽に決定的な違いをもたらします。録音されている音楽は創り出すプロダクションの作業をどのような感性が統べるかが重要であり、ライブの音楽は演奏家のその場の感性が重要なのです。ですから、CDを聴いてとても好きなアーティストになった人のライブが全く異なったテイストで楽しいということになるわけです。

永く残る音楽への讃歌

録音された音楽とライブの音楽の違いは、無意識に聴いている人のほうが囚われていないために、自然に受け入るようです。ですから、先に例にしたような、音楽の対して明確な世界観を持つ人たちのネットワークでは安室奈美恵華原朋美は受け入れられないのに、CDは爆発的に売れたりするのでしょう。逆に、彼女たちの音楽がそのような専門的な音楽の世界観に向いていれば、爆発的に売れることも無かったでしょう。イスラエルのことわざに曰く「河に2つの堤あり」、1つの音楽の形にそれを肯定する観点と否定する観点があることは当然ですが、音楽は感性のもの、あらゆる音楽を楽しめる感性こそ大切であり、ほんとうに豊かな財産であるといえるのではないでしょうか。
私は、録音された音楽を楽しむことと、ライブの音楽を楽しむことを全く別に捉えることにより、音楽をより楽しむことができているように思います。実は、私個人としてはJazzなどになると、ライブのほうが好きで、録音されているものはあまり好きではありません。でもミニーリパートンの天使のような歌声は素晴らしいですね・・・・でも、ライブで聞ける人の音楽は、ライブで聞きたい。何回も聞けなくても、心にはその感動が刻み付けられています。ニューヨークで酔っ払いながら聞いたBuleNoteの深夜のライブ、いまでもその演奏や感動を心の中で反芻することができます。ライブの音楽は、心に永く留めたい。そして、永く残る形となった素晴らしいアルバムには、それ相応の場を与えてあげたい、それがオーディオという趣味です。
音楽を創り出す人たちも、音楽の形がライブがすべてではないことをもっと理解して欲しい・・・。旧来の音楽の形、つまりライブ演奏の論理では、いいアルバムは作れないことをもっと理解して欲しい。また、いいアルバムを作った人たちが、旧来の論理に陥りダメになるのをこれ以上みたくもありません・・・・。録音された音楽はひとりではいいアルバムを作り得ず、様々な才能の結集が必要なのです。歴史が浅い、録音された音楽とは、永く残る形を得た、音楽の進化した姿です。
たくさんの素晴らしい音楽が残され、多くの人々をより心豊かにしますよう心から祈ります。



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