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アーティストと歌手の違い
(現代のアーティストはパーソナルスキルの確立なくして成立しない)

あーちすと?

このホームページを作成するときに、書いていて?な言葉がありました。メインページ浜田麻里ライブラリの説明を書いたときの「私が大好きなアーティストの一人です。」という文章にある、アーティストという言葉でした。自分で書きながら、しっくりこない言葉だったのです。
実は、私は歌手が自分をアーティストであると考えたい傾向があることを全然知りませんでした。知ったきっかけは、ある日にテレビを見ていたところ安室奈美恵がインタビューに答えて「私もやっと’あーちすと(わざとこうした言い方をするのがお洒落なのだと思います)’になれたと思っていたんですが、歌っているだけで’あーちすと’ではないってある人から言われたんです」と答えたのを聴いたときです(これは音楽のカタチでも紹介しているお話しです)。私はエエッと思いました。なんで歌っているだけの子がアーティストなんだろうと思い、凄く印象深くなってしまいました。
たしかに広い意味では言葉の定義として音楽家は芸術家なのですが、アーティストと日本語で言う場合は、かなりの水準の芸術家であるという意味があります。そうでないと、この言葉は無意味になってしまうからです。言葉の定義だけで議論すれば落書きを書いてもアーティストになってしまいます。お金をもらえばそれはプロであって、アーティストであることとはあまり関係ありません。在野のアーティストはいくらもいるからです。
このころの私の理性には、歌手でアーティストですと言える水準なんていうと世界水準のクラシック音楽家しか連想できませんでした。テレビで歌っている人がアーティストなんて想像もできませんでした。ですから、浜田麻里すらも私の大好きなロック歌手のつもりでいましたが、アーティストとは考えてもいませんでした。ただ、これは言葉の定義の問題なので、ホームページは「私の好きなアーティスト」と書くことにしました。でも、ぜんぜんピンと来ないと思いつづけていたのです。だってベートーヴェンとかシベリウスと浜田麻里を同列に並べるわけには行かないじゃない無いですか・・・・。
でも、そんな私の中には大きな心の状態の転機が訪れていました。それは、JPOPSを私の感性が受け入れたことです。浜田麻里は例外的に早期に受け入れていたのですが、JPOPSをよく聴くようになったきっかけは華原朋美でした。ドイツ フランクフルトのザクセンハウゼンの街並みを飲み歩いているときに、MDで聴きながら、はまってしまったのです。素直な話し、衝撃でした。それは音楽がではなく、このタイプの音楽をいいと感じた自分に対しての衝撃です。私の知るあらゆる音楽の基準からすると、まったく落第の音楽でありながら、私はとてもいいものであると感じたからです。それ以来、JPOPSを聴く機会が増えました。大体において、感性というものは理性よりも先を行く場合が少なくありません。理性は、それを受け入れて理解する仕方を広げるだけのことしかできません。なにしろ、アーティストといったら世界的なクラシック音楽家しか連想しない私なのに、そうしたCDなどをあまり買わなくなっていたのです。理屈の上では、充分にそうしたCDなどをもっていると考えていましたが、評価しているにも関わらず選択しないということは、不思議なことでもありました。
あまたにいる歌手や音楽家の中で、高い人気や尊敬を集めることは、なにか大切なものがあるはずです。人の顔には人種を超えて美しいという原型的な形があるらしいことが最近の心理学によって示されていますが、人気の出る音楽や「あーちすと」にも、それに近いキーワードがなにかあるように思います。
私の漠然としたこのような考えに、ひとつの結論を与えたのは、浜崎あゆみでした。だいたいからして、デビューして間が無い彼女なのですから、私がファンになったのも極々最近のことです。きっかけは簡単で、気まぐれに買ったDVDを見ていて、ええっ、とはまってしまいました。

どのように浜崎あゆみを理解しているかについては、風になれ!をご覧ください。

私は、現代のJPOPSが到達した全く新しい音楽の形態と、音楽を体現する技術者としてのアーティストではなく、感性の象徴であり焦点を定めるアーティスト、という考え方を自分で納得しました。この辺については、オーディオの遍歴Jでも述べたところです。ただ、この話題を掘り下げて説明しておかないといけないなあと感じていました。
ここでは、現代における「あーちすと」で一番大切なものが何であるかを明らかにしておきたいと思います。

かつて技術と芸術は切り離せなかった

音楽に限らず、技術と芸術は表裏一体のものでした。例えば歌を歌うならば、その歌の形態に応じた発声を学ばなければなれません。ヨーロッパ音楽であれば、ヨーロッパ式の発声法が必須ですし、アメリカのショー音楽系でしたら、アメリカ式のボイストレーニングは必須です。もしもモンゴルのホーミイ脚注1を歌いたいならば、ホーミイの発声法でなくては全くできやしません。
では、技術を習得したら、あなたはアーティストですと太鼓判を押されるでしょうか?実際のところ、それはスタートラインであり、最低条件に過ぎません。人からアーティストと認めてもらうためには、人の心を打てる音楽を体現しなければなりません。いかに高い技巧があっても、それだけでは人は感心はしても、それを超えることはありません。実際のところ、大部分の音楽家はこの段階でふるいにかけられてしまいます。「歌はうまいんだけどねえ・・・味が無いよなあ」とか、「内容が無いよなあ」となってしまうわけです。
歌手としてどれだけうまくても、それで留まるのであれば単なる演奏家に過ぎず、それを超えることはできません。JPOPSの世界で言えば、歌手は、プロデューサーや作曲家の手駒になるわけで、それが悪いわけではありませんが、やっている方には大変なストレスがあるだろうと思います。この場合の歌手は消費されるだけなのですから・・・人はそのような状況に耐えることは簡単ではありません。小室哲哉の音楽に感じられる限界は、この問題の解決策を持っていないことであったのだと思います。
この状況は、作曲家にもあります。実は、私がクラシックばかり聞いていた時代は、歌謡曲が全盛期のときでしたが、私は大嫌いでした。演歌も嫌いでした。その理由は簡単で、作曲技術が行き詰まっており面白くも何とも無かったからです。歌詞だって建前ばかり、なんの感銘も覚えないものばかりでした。今から20年以上前から「あらゆるメロディーは作り尽くされてしまった・・・」といわれていました。でも、こんな話題は200年前だって言われていました。音楽理論の起源なんて、人類史から見ればごく最近ですが、学問としてみれば意外と古いものです。
つまるところ、作曲だって、演奏だって、技術としては確立しているのですが、それを如何に体現したところで、それだけが優れていても人は感銘を受けるわけではないということです。
アーティストと単なる演奏家/作曲家を切り分けるために重要なのは、音楽を実現する技術とそれに加わるなにかが必要なのです。

音楽技術の意味を変えてしまった現代とアーティストの本質

音楽家には、技術的に大きな変化が現代にはありました。オーディオ技術の進歩です。録音技術は演奏家に対して求める音楽的技量について問題があってもそれを補うことを可能としました。jazzのボーカルやJPOPSにおいて、アメリカ式のボイストレーニングも、ヨーロッパ式発声法も、いい結果は生みません。それは、マイクを利用する前提の発声法が求められているからです。人の声が持つもつみずみずしさと声の力がキーワードになっている音楽にとって、大きなよどみない声を出すための技術は、声の楽しさを奪ってしまいます。ですから、トレーニングをし過ぎjazzやJPOPSを歌うと、箸にも棒にもかからない歌になってしまうでしょう。
このような技術進歩による影響は、演奏家にも訪れています。シンセサイザー等の電子楽器の進歩です。現代の最新のシンセサイザーであれば、ある程度の規模のオーケストラくらいの音楽は再現が可能です。そして、その演奏は正確無比です。現実に、演奏だけで生活をすることは難しくなりつつあるといわれています。
かつての演奏家の努力目標のひとつ、正確な演奏というテーマは、技術の進歩により別な形で解決されつつあります。
しかし、音楽の技術は全体として進歩を続けているわけで、その高度さが故に、ひとりの力で達成できることは、全体の中で比重を下げつつあります。かつてはひとりとか数人で達成できた音楽表現は、現代ではよりたくさんの人の力の結集が必要になりつつあります。音楽そのものが、総合芸術になりつつあります。
あらゆる技術の進歩は、専門化の過程を辿ります。ですから、音楽も、作曲、各パートの演奏、録音、ミキシング、すべてに専門家が必要です。これを統べるのがプロデューサーですが、プロデューサーは感性の統べ方までは成す事ができません。音楽を創るために必要な、世事があまりにもたくさんあるからです。
ここで求められるのが、音楽の感性を統べる個性です。これが現代のアーティストの本質です。ですから、アーティストには強力な指向性と個性が求められます。歌手とアーティストの本質的な違いとは、音楽の感性を統べているか否かが、まず第一義にあります。
ここで重要なのは、作曲や作詞などを行なうことよりも、総合芸術と化した現代の音楽技術を統べることです。作曲も作詞も、ひとつの表現技術であると考えなければなりません。

アーティストには確立したパーソナルスキルが必須

感性を統べる個性・・・個性とはなんでしょうか?人と違うことでしょうか。しかし、人の心を打つことができなければ高い評価を受けることはできず、違いを明らかにしたところで人によっては「またやってらあ」と、いつものことのように受け止められてしまうでしょう。
個性とは、他者との交わりの中で基準となるもののことであり、人と違うと他者に認めてもらう外観のことではありません。確立した個性とは、考え方、その人の持つ心象世界などの統合されたものであり、その人が蓄えたパーソナルスキルそのものです。そして人との関係を行なう蓄積、つまりインターパーソナルスキルにより相手に伝わっていきます脚注2。通常の社会や組織であれば、インターパーソナルスキルは、話し方、態度、生き様として表現されますが、音楽においては音楽技術により音楽として表現されます。すでに説明したように、現代の音楽における音楽技術はかなりの水準に達しており、確立したパーソナルスキルがあれば、総合的な取り組みによりそれを的確に伝える力を持っています。
浜崎あゆみの音楽の本質には、確立したパーソナルスキルがあります。それをJPOPSが近年にやっと確立した、そうしたパーソナルスキルにより音楽を統べさせるという音楽の創り方脚注3により実現したことにあります。
言葉に感心がある人は、浜崎あゆみの作詞に人気の秘密があると考えるみたいですし、音楽に感心がある人は音楽の形態やプロダクションシステムに感心があるみたいですが、そのどちらも全体を捉えていないといえるでしょう。そうした観点から見れば、いろいろな問題のほうが多いのではないでしょうか?私にはちょっと?な日本語でもあるし、歌は真似ができるものとは思えませんが、卓越しているというほどでもないと思います。しかし、浜崎あゆみの音楽は、音楽として楽しむとき強く伝わるものがあるのです。おそらく本人が思う以上に・・・脚注4
実は、この話題を明確に認識したのは、人から言われた言葉にありました。
私がオーディオシステムで浜崎あゆみを楽しむために集中的に改善をしているときでした。リンジャパンのS部長も巻き込まれており脚注5、私の要求を理解するためにご自身でも浜崎あゆみのCDを数多く聴いていました。そんなある日、S部長に最近ちょっと気に入っている愛内里奈をすこし聞いてもらいました。

「ね、この子もちょっと面白くないですか、この声とか歌い方とか」
「かるばどすさん、あゆちゃんとは比較にならないですよ。ただ歌っているだけで、語りかけてこないじゃないですか。フランクシナトラ脚注6みたいに語りかけてこないと・・・あゆちゃんにはそれがありますからねえ」

S部長はいつも核心を突く人なのですが、今回も私は、はっ、としました。私が愛内里奈を聞きながら、面白いけどなんか足りないよなあ、と感じていたことを「語りかけてこない」と説明してくれたからです。そんな浜崎あゆみの音楽は、本人を含めて、だれにも意図的に作りつづけることはできはしません。パーソナルスキルに基づいた人との関係とは、意図的に制御して深くすることができるものではなく、相手に一歩踏み込み、また、相手に踏み込ませる関係によってだけ高めることができるからです。ですから、送り手の自身をありのままに吐露する力と、聴き手の受け止める力が無ければなりません。別な言い方で簡単に述べれば、建前を表に出せば、人との関係は崩壊してしまうということです。浜崎あゆみの音楽は、建前で作られたときに崩壊してしまうでしょう。そして、彼女はそうしないことを初めから決めているのです。
浜崎あゆみはなにも隠さずに、インタビューに答えてこう語っています脚注7。長いインタビューの一部なのですが、大盛況であった初コンサートで引ける気持ちがあったと浜崎あゆみが語ったあとの部分です。

●委ねることなくここまで来ていて、あなたは今、音楽を出しつづけているわけですよね。ただ、自分が出してくるものに対して、委ねてくる、物凄く大きなものが確認できたわけですよね。その自分の中で気持ち悪い関係っていうものに対して、僕、あなたは引いたんだという風に思うんですけど。違いますか?
「そうかなあ。だから、どこかみんなどこにも行かないでって思いながら、ちょっと違うと思いながら、言葉を選んだり、音を作ったのしたことに対して、自分にこう、引けがあったというか、お客さんに対して、たぶん。あった分、それだけの「待ってたんだよ、会いたかったよぉ !」っていう、その物凄いパワーでぶつけられてくると、受け止めきれないっていうか。あたしは絶対これは支えられないと思った。負けると思った、お客さんに」
●なるほどね
「で、その辺かな?もういいかなって。昔は全然興味なかったのに、音楽の”お”の字も。今もわかってないけど、でも、少なからず欲は出てきて、音に対しての、あゆなりのね。欲が出てきたんだったら、やっても平気だって。それでもし、「ああ違うな、あゆはもっとこうデジデシしてくれなきゃ」とか」
●ははは
「(笑)シャカシャカいっててくんなきゃっていう子たちがいなくなっても、それをたぶん振り向かせる事に、自分は生きる喜びをみつけられるんじゃないかなっていう」
この後に、アルバムDutyの話題に入っていきます。

このように語れる浜崎あゆみは21世紀のアーティストの典型脚注8であると私は確信しています。

実は、アーティストのキーワードは確立したパーソナルスキルではないのか

浜崎あゆみを話題に述べてきましたが、実のところ、現代において高い評価を受けている音楽のいずれもが、確立したパーソナルスキルに裏打ちされています。
たとえば、ベートーヴェンなんかは、トータルに考えると生前はあまりいい評価は受けていませんでした。ロッシーニの登場で、ベートーヴェンはもう古いと揶揄され、彼の名前は葬式のときに人が多く集まって思い出された程度です。本人は変人一歩手前で、引越しマニアで、ひとつところに半年といたことがありません。しかし、現代において、当時高く評価されたロッシーニは歌劇ウイリアムテルやセブィリアの理髪師など一部のオペラくらいしかその作品は覚えられることは無く、オペラ以外の曲は、よくわかっておらず、ベートーヴェンのように全作品が体系的に守られることはありませんでした。この違いは、人気や音楽理論よりも、その中に内在されているメッセージ性/パーソナルスキルの発露にあります。彼自身を見舞った聴覚を失うという音楽家にとって致命的な悲劇、それを超克した心は、ある高みにまで達したのではないかと思います。ベートーヴェンが内に秘めていた神秘主義的/グノーシス的な世界観は、心の中に神性と人類愛、そしてその勝利を想起させたり脚注9、心の中の葛藤/運命を相克するドラマ脚注10であったりします。ですから、東西ドイツが分かれていたときに、オリンピックでは国歌の代わりに第9の合唱を採用していたりしました。ロマンロランも、高村光太郎もその精神性に圧倒され、素晴らしいエッセイを書いています。
モーツァルトに至ると、音楽の天才であっただけではなく、天真爛漫なその魂は、天国からの音楽の媒体に相応しかったのではないでしょうか。浜崎あゆみの新曲が早く出ると人は言いますが、モーツァルトはもっと早く(曲によっては1日で作っちゃった人ですから)、そしてその音楽は人類の宝と広く認知されています脚注11。私は、フリッチャイ指揮による大ミサ曲(k427/ケッヘル427と読みます)のサンクトスをLPではじめて聴いたときの衝撃を今も覚えています。モーツァルトは私生活では楽天家の遊び人で見栄っ張り、奥さんはそれに輪をかけた人物で、モーツァルトの死後遺体は不明、彼には本当の墓はありません。しかし、生活と魂の形は関係なく、彼の確立したパーソナルスキルは、神の申し子といわれた音楽として形を成しました。
20世紀の巨匠の一人であるシベリウスは、交響曲第三番の指揮の解釈を学びたくて訪れたニューヨークの指揮者に対して、こう説明したといいます(うる覚えですが)

「この曲には、私の故郷フィンランドのこの光景が描かれているのです」と窓をあけました。そこには、フィヨルドがあり、半分は雲がかかり雨が打ち付けており、あとの半分は明るい日差しが差し込んでいました。激しい北欧/祖国の自然と、それに対する畏敬と親愛の気持ちがこの曲の基本であったのです。

パーソナルスキルの発露は、言論統制下には不可能となります。パーソナルスキルの発露とは人が思うままに表現することだからです。統制に引っかかること、請け合いです。フィンランドがスウェーデンの属国扱いで独立していなかった時、シベリウスが故郷を思い作曲したフィンランディアはフィンランド人に熱狂的に迎えられ、時の政権からこの曲は演奏禁止とされました。
ソビエトは、豊かだったロシア音楽文化がソビエト時代に壊滅し、ショスタコーヴィチのような天才も交響曲5番により逆説的な表現をした後、あまり私にはいい印象がありません。なにしろ、共産党幹部が音楽にいいの悪いのと言っているのですから。現代中国でも、見るべき音楽文化は育成されている気配がありません。共産党の気に入らない音楽はできないのでしょう。同国の音楽文化も壊滅している可能性があります。一般的に、戦時下のように統制が厳しい時期には、名曲といわれる音楽はほとんど生まれていません。第一次世界大戦で世界的に有名になったマリーネデートリッヒのリリーマルレーンも作曲は大戦前でした。実際には、戦争中にも戦意鼓舞の為に膨大な音楽家たちが総力をかけていろいろな作曲や演奏活動をしていたはずなのですが・・・。
音楽を精神性やイデオロギーで語ることは正しくありません。しかし、人と人のコミュニケーションとして、確立したパーソナルスキルの発露として音楽を考えることは正しいと思います。音楽に込められた精神性とは、パーソナルスキルの発露の一部に過ぎません。音楽は、言葉に中心を置かない、人と人のコミュニケーション(インターパーソナル)の形態として、理解することができます。
人に強く支持される音楽とは、音楽技術を基本とした、パーソナルスキルの発露であり、それを実現する人がアーティストなのだと、私は考えています。そして、現代の音楽ほど、音楽技術よりも確立したパーソナルスキルを求めているのではないでしょうか?

このページを作成したときは、行動心理学用語で説明することにしましたのでパーソナルスキルとして述べています。このパーソナルスキルの源泉そのものをインテグラル・セオリーに基づいて説明し、浜崎あゆみを語ったページ「風になれ!」が2001/12/26に完成いたしました。是非ご覧ください。



脚注1

モンゴルのホーミイとは、モンゴルの人たちが生み出した発声法による歌で、声帯で通常の声の他に高調波(周波数が整数倍になった音で、簡単に言うと裏声みたいな音)を同時に発声し複雑なハーモニーを一人で奏でます。初めて聴くと、ええっ、て思います。テレビでコマーシャルに使用していたことがありました。

脚注2

この説明の仕方は、行動心理学的な観点に立っています。

脚注3

作曲家や作詞家がすべての中心にあるのではなく、感性をもつ人を中心に据える音楽の作り方。おそらくSPEEDくらいからそうした音楽の作り方が生まれてきたのではないかと思います。なにしろ楽譜も読めない、言葉で的確に表現することすらできない子供たちだったので、周りから感性をくみ上げて音楽に固定する工程を必要としていて、生み出されたのだと思います。

脚注4

音楽を人間関係能力として理解すると、行動心理学的にはいろいろなことが想像できます。FIRO-B(人間関係能力を数値化して評価するためのテストの一種)などの測定が示すように、人の自身が相手に対して影響を与えようとする意欲と、その実際に相手にあたえる影響には大きな隔たりがあり、一致するほうが珍しいことです。まったく相手に伝達しようとする意欲が無いのに、相手に強力に伝わるということもしばしばあります(実は私のFIRO-Bもそうした傾向があります)。アーティストには、強い影響を与える傾向が必須でしょう。

脚注5

実は、私が浜崎あゆみの音楽を再生するために、いろいろな人や会社が巻き込まれてしまいました。詳細は後日にご説明しますが、リン本社やPhillips本社を巻き込む大騒ぎになり、日本から浜崎あゆみのcdが試聴用に送られ、私の家と同じような構成のシステムがイギリスにも比較用に用意されました。

脚注6

S部長はフランクシナトラの大ファンです。

脚注7

月間ロッキング・オン・ジャパン2001年4月号71ページ中段より。この記事は浜崎あゆみからのオファーで実現したもので、同誌は忠実にインタビューを再現することで浜崎あゆみをそのまま伝えるという編集方針で臨んでいます。立派なことですね、両者とも・・・。

脚注8

宇田多ひかる、倉木麻衣、小柳ユキを三大歌姫というそうですが、私は今のままでは昔のタイプのアーティストというか、単なる歌手なので、旧世紀の三大歌姫とうっかり友人に話したら、「浜崎あゆみがいいのは認めるけど、そりゃ言い過ぎだぜ」と怒られたことがあります・・・(^^; ただ、歌のうまさで言うなら、素晴らしい人なんてたくさんいるから、若くて将来性のある歌手って感じでこの人たちを見てしまう私なのですが、彼女たちのアルバムを全部持っていたりします・・・。
2001/5/30追記
歌手の納税金額が明らかになったら、ワイドショーのレポーターたちが言う三大歌姫は、浜崎あゆみ、宇田多ひかる、椎名林檎と言っていました。こいつらのいい加減な報道姿勢はどうなっているんでしょう。くだらない標語を作って、責任とらないんだから〜

脚注9

合唱幻想曲、交響曲第9番、ミサソレムニスなんて、こうしたテーマが包含されています。

脚注10

交響曲第5番、ミサソレムニスなんて、こうしたテーマが包含されています。

脚注11

本論とはかけ離れてしまうのですが、曲の数は貧しさに比例するという見方があります。もちろんバッハみたいな例外がありますが、シベリウスが存命中に交響曲を第7番までしか作曲しなかったのは、フィンランド政府の手厚い保護のためであったという意見があります。モーツァルトもお金に困るほどにパンパン作曲したきらいがあります。ベートーヴェンも、交響曲第五番と第六番は同日に演奏会をしました。信じられませんが、丸一日の演奏会で、大分なお金を集めたようです。しかしまあ、一曲でも歴史に残るような曲を並行して作曲しちまうんですから、凄いものです。
これは、浜崎あゆみの属しているavexにもいえる点だと思います。なにしろ、浜崎あゆみが売れなければ、2000年の同社の決算は大赤字だったのです。これは2000年上半期の中間決算で明らかでした。ですから、浜崎あゆみにたくさんの曲を創って欲しいという要求があっても不思議なことではありませんでした。彼女の歌にあるように、同社は浜崎あゆみに賭けるしかなかったのです。それに答えた浜崎あゆみのアルバム名がDuty(義務)、本当に凄いアーティストだと思います。



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