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風になれ! 浜崎あゆみのシッポの秘密 妖精と・・・魔法と・・・現代

風になれ! 外伝 III

妖精と…魔法と…現代

2003/03/19,4/6

はじめに

このコンテンツは、昨年(2002年のことです)に書き上げるつもりでしたが、ここのところ忙しいために、時間がかかってしまいました。 ネットワークの中に見出される様々な人々の意識の表出の背後にあるものを明らかにして、現代の持つ危うさの一端と、その先にあるものをお伝えしたいと思います。
構成的には、風になれ! 外伝 II 浜崎あゆみのシッポの秘密の姉妹編として、まとめてみました。現代を見つめる、ひとつの視点を見つけていただければ幸いです。

01 ちょっと妙なタイトルですけど・・・

これから、現代にも息づく魔法的な世界観を中心とした話題を述べていきます。入り口はファンタジーから入る感じがしますが、話題の展開とともに現代における様々な局面を見つめるための、ひとつの視点であることをご理解いただけるのではないかと思います。

本当は、魔法ではなく呪術と述べるほうが日本語としては正しいかと思います。だもので、はじめはちゃんと呪術と書いていたのですが、なんか読んでたら魔法と書いたほうがいいと思いました。日本語で呪術と書くと、おどろおどろしい印象がありますよね、そのためです。実は、英語では呪術も魔法もmajicといいます。日本語には、呪術と魔術という別な用語がありますので、はじめに日本語を定めた人たちがここで述べるような場合の用語に呪術を割り当てたのだと思います。ただ、そんなに当たっている訳語の割り当てではないように思います。なぜならば、呪術と魔術は、本質的に同じ原理/発想に基づいているからです。ですから、今風に魔法と書いても、別におかしくはないと思い、読みやすくするために意図的に魔法と書き換えてみました。雰囲気で慣れて頂いたあたりから、呪術という用語に戻します。

私達は生まれてから成長していく中で、心の相が段階的に移っていきます。そうした心の相の変移があると、新しく、より強い心の相が、それまでの心の相に取って代わります。そして、以前の心の相は私達の意識下の世界に移り、自分の中で主流を成すことはありません。しかし、なくなるわけではありません。
そうした変移の歴史の中で、比較的初期にあるものが、呪術的/魔法的な世界観です。
いつもは影を潜めている、そうした古い、相対的に力が弱くなっている相は、自身の中に留められているので、いろいろな形でそれを表現したり、そうした表現を受け止めたりすることができます。ですから、今も多くを見出すことができます。
魔法/呪術という言葉の意味は後ほどにご説明するとして、私達がよく知っている魔法/呪術的な表象をちょっと見てみましょう。
現代で最も有名なそうした表象は、ケルト民族に端を発しているといわれている「妖精」ではないでしょうか。
妖精のイメージは様々なものがあるのですが、ディズニーのピーターパン以降は、図のようなかわいい女の子をベースにした妖精のイメージがよく知られるようになりました。
実際には、妖精伝説は様々な形があり、いろいろなものが登場しています。
現代では、ファンタジー小説や映画のおかげで、妖精に関係した用語やイメージは、よく知られるようになってきました。たとえば、指輪物語」に登場しているエルフとかドワーフ、トロルなども、妖精の一種です。「指輪物語」の原作者であるトルーキンはイギリス人ですし、研究者でもあったので、そうした伝承に精通していました。
伝承されている妖精にはいろいろな種類がありますが、いくつか共通的な点があります。
ひとつは、自然の様々なものと共生していることです。そして、妖精は共生している自然、たとえば木とか、風とかを代表したりもします。たとえば「風の王」とか、そんな感じです。言い換えると、自然とは様々な妖精が集まる世界でもありました。
もうひとつは、現代において妖精について共通的に言われていることで、妖精は子供の頃には見ることが出来る・・・と語り継がれていることです。そして、妖精の世界に行けるのも子供達だけです。

この理由は、子供達には「夢を見ることができる時期にしか見れないから・・・」と説明することが多いと思います。しかし、それは正しくはありません。本当に、子供にしか、妖精とその世界は見れないのです・・・その理由は後述しています。

実は、子供にしか妖精とその世界は見れない・・・という概念が生まれたのは比較的最近のことで、昔は、大人達も妖精たちと交わっていました。18世紀には、ヨーロッパで妖精画のブームがあったほどです。
ここで示したような、自然の事物に妖精やそれに類するものを見出すという世界観は、世界中いたる処にあり、様々なものが知られています。そして、今でも新しく作り出されてもいます。
日本の作品からそうした例を挙げてみましょう。典型的なものは、「となりのトトロ」ではないでしょうか。日本の子供達のほとんどが愛するこの作品の根底を貫いている世界観は、ここでご説明しているものと同系列です。「となりのトトロ」でも、妖精についての大切なルールが守られており、そうした背景の元に、いろいろなものが登場してきます。

となりのトトロ DVD版 14:06〜15:14
制作 スタジオジブリ
発売元 ブエナビスタホームエンターテイメント
VXDZ8002 \4,700

「メイ、手、真っ黒じゃない、どうしたの?」
「真っ黒クロスケ逃げちゃった〜」
「あ〜、メイの足!」
「あっ」
「あ〜、あたしのも真っ黒!」
「ほぅほぅ、いゃいゃいゃいゃ、う〜む、こりゃ、スス渡りが出たな」
「スス渡り?スス渡りって、こんなんで、ぞわぞわ〜って動くもの?」
「んだぁ、だぁれもいねぇ古いうちには居てぇ、そこら中、すすとほこりにしちゃうのよぉ、小ちぇえ頃にはワシにも見えたがぁ・・・そ〜かぁ、あんたらにも見えたんけぇ」
「そりゃ妖怪ですか?」
「そっだらぁ恐ろしげなもんじゃ、ないよう。ニコニコしとれば悪さはしねぇし、いつの間にか居ねくなっちまうんだぁ。今頃天井裏で引越しの相談でもぶってんのかなぁ」

 

この物語の中でも、トトロの住処には、子供達しか行けませんでしたし、交わることも、子供達だけができるのでした。そして、メイが迷子になったとき、トトロはサツキを神秘の力で助けてあげたのでした。
「となりのトトロ」は、現代風に作られた、かわいい妖怪・・・もとい、妖精の登場している物語でした。人から聞いた話ですが、10歳前くらいまでの子供達はかなりこの作品を愛しているそうですね。100回以上繰り返し見ることが少なくないそうです。多くの親御さんから、そうしたお話を伺いました。
大人の視点からすると、「となりのトトロ」という物語の中に、は自然との共生とか、いろいろな大人の理屈を見い出してしまいますが、もっと大切な点は、ケルトに端を発する妖精伝説と同様に、この作品が魔法的/呪術的世界観をベースに創られていることにあります。
そこに、子供達が強く共感する理由と、大人がほのぼのとした懐かしいものを感じる背景があるのです。
魔法的/呪術的な世界観とは、子供のときに中心としている世界観でもあるからです。
もうちょっと高い年齢層向け?の作品でも、魔法や呪術は、大切な役割を果たしています。
右は、麻宮騎亜原作のコミックのテレビ版「サイレントメビウス」の1シーンです。主人公である香津美・リキュールが血の契約をもって父ギゲルフ・リキュールから継承した剣皇(けんおう)グロスポリナーを構えているシーンです。香津美は、古(いにしえ)の魔道士の末裔です。そして、彼女がルシファーフォーク(妖魔)を封印するときの呪文はこうなります。

ソル(地球)とマルス(火星)の精霊 ソラルとバルツァベルのを示せ!!
金と鉄の力を我が剣に与えよ!!
我はガイアの元に在り!!
天空におわす精霊の中の精霊
月のシャド・パルシュモス・ハー!!

我に銀の剣をトール(雷王星)への光を反射(うつ)し
セレネとの契約を果たせ!!」
アニメ版「サイレントメビウス」 第8話 「継承 Yes! My Master!」より
テレビ版は原作とちょっと呪文が違うんですけど、
こちらの方が正しい日本語です・・・

この呪文は、惑星霊の力を借りるものです・・・。呪文そのものは、現代的な感覚で、自然でもあります・・・。

正確には、これは惑星霊を支配するための呪文です。原作ではそう説明されてはいませんが・・・支配するとご説明する理由は、読み進めていただければお分かりいただけると思います。

実は、この呪文でも、魔法/呪術の大切な原理が守られています。
呪文で他者の力を使うとき、言い換えると、一瞬でも他者を支配するときには、その相手の真の名を使用する必要があるからです。
真の名を知ることは、魔術/呪術で相手を支配するために必要な基本的要件でした。そこに、ソラル、バルツァベル、シャド・パルシュモス・ハーなど、精霊の名を呪文で必要とする理由があります。
そして、真の名により他者を支配するという考え方・・・そこに、魔法/呪術の根本的なルールが垣間見えています。
もうちょっと、その点をご説明しましょう。

余談ですが、最新科学と魔法が組み合わされている世界を描く点は、日本の作品が世界で独特な地位を築いています。率直なところ、欧米の人たちには、この面白さはまだわからないかもしれませんね。

02 呪術的な世界観とはなんでしょうか

そろそろ、魔術という言葉ではなく呪術という言葉で説明をはじめましょうか。
呪術的というおどろおどろしい用語は、学術的に決められているため、致し方なくここで使用しているだけで、「呪術」という言葉の印象と、その使われている意味には大きな乖離(かいり)があります。そのため、魔法/呪術的と書いてきましたが、用語にもそろそろ慣れていただいたのと思います。
さて、呪術とは、どのようなものなのか・・・呪術的とは、どのような意味なのか・・・。
これから述べる「呪術的世界観」とは、意識の相に名づけられた名称です。
人の意識は、誕生してから、大きく世界観を変えながら成長していきます。そのイメージを図にしたものが右の図です。

この図は、インテグラル・セオリーで説明されているものをベースにしています。それぞれの用語については。こちらをご覧戴くと、詳しい説明があります。

図で赤い大きな矢印をつけている部分が2つあります。横方向の矢印が示しているのが、今述べている呪術的世界観とです。縦方向の矢印が示しているのが、呪術的な世界観を成り立たせている情動的自己です。

余談ですが、現代で世界的に主流となっている世界観は、図で下から3段目の世界中心的世界観です。この世界観の特徴は、民族や社会を中心に据えた考え方にあります。そして、その世界観が、国家間、民族間の対立と、戦争の原因となるのです・・・ですから、この原因を超えるまで血塗られた時代は続きます・・・そして、多くの人たちが、宇宙的視野に立ち、この星やより広い世界を見据えて考えることができるとき、この忌まわしい時代は終わる・・・と、インテグラル・セオリーでは考えます。

呪術的な世界観の背景である情動的自己とは、自分と他者や他のものとの区別が、明確についていない状態の自己です。こうした自己は、未熟でもあり、個がまだ確立しきれていない状態の自己のことです。
「自己と他者の区別が明確につかない」ということから、特徴的な考え方が現れてきます。それは、自身と他者がどこかでつながっており、他者を自身の意のままにできると心のどこかで信じていたりします。そして、意のままにできないことに気づいてくると、自分にはできないけれどもだれかがそれを支配しており自由に制御する力を持っている・・・と信じているのです。

誰か・・・とは人とは限りません。組織かもしれないし、国家かもしれません・・・宇宙人と思い人もいるでしょう・・・知らない電波に支配されていると信じる人もいます・・・社会の真の支配者は、搾取階級と信じる気持ち、アメリカ社会の影の支配者はユダヤ人であると思う気持ち・・・本当の背景は、この辺にあるのかもしれませんね。

このような背景があるので、先の例で示した香津美・リキュールの呪文は、惑星霊が登場し、その力を借ります。その際の呪文には、魔導師と惑星霊とのつながりを本質的に示す、相手の名、を使う必要がありました。不断のつながりこそ、呪文の拠って立つところです。「真の名による支配」といいます。原作者の麻宮騎亜がどれだけそうした原理を知ってたのかわかりませんが、いろいろな魔法や呪文の資料をを見ると「真の名による支配」という概念は、繰り返し説明されています。ですから、作品もそうしたパターンを守っているのでしょう。
このような原理について、違う述べ方で説明すると、世の中の様々なものと、私達にはなんらかの強いつながりがあり、必ずなんらかの影響が私達にも存在している、と考えている状態でもあります。
実は、私達の日常でもそうした考え方が残っています。ですから、具体的な説明はとても簡単です。
たとえば、占星術です。
西洋の占星術でも、日本で使用されている陰陽五行を基にしている干支暦でも、全く異なる方法で星を見ていますが、根本的な原理は同じです。占星術でも、干支暦でも、宇宙の星々の運行と、私達の運命が、関係していると考えていることに根本的なキーワードがあるからです。
私達は宇宙と不可分であると信じるのです。

このような例のひとつがこちらでも説明されています。

また、古い時代の様々な思想にも、それに類した、自然と私たちを不可分に考えるものが少なくありません。エジプトのギザのピラミッドの配置は、エジプト人がサフと呼んだオリオン座の三ツ星の配置を地上に模したものであると言われています。同様に、星座を模した建物の例は、多く知られています。

このような考え方を星辰信仰という場合があります。

また、古代の最先端であった天文台とは、観測する場所でもありましたが、同時に星々の運行を地上に記したものであり、宗教的遺跡と呼ばれる場所と同じ場所に併設されていたりしまた。

チッツェンイッツァにあるマヤ文明の天文台跡

昔の天文台は、星が意味ある位置にあるときに、特定の場所から見るとわかるように作られていました。つまり天空の秘儀を地上で形にしたものでした。

こうしたことは、正確な測量技術と、土木技術が確立して、はじめて実現できます。
右の写真はもメキシコ チッツェンイッツァにあるマヤ文明の天文台跡。マヤ文明は現代の太陽暦よりも正確なカレンダーを発見していました。
古代において、天文学は最先端の知識であり、季節の訪れを知る指標でもありました。星が決まった場所にあるときに、洪水は発生し、季節が訪れるのですら、関係を信じるほうが自然でもあります。ですから、星辰信仰が生まれることや、星々と私達の人生の日々との関係を想像することは、長い間にわたって自然でもありました。古代において精緻に天文学が研究され、数学も発達させていながら、呪術的発想が思想の中で幅を広げていたという事実は、興味深い点でもあります。

このように、自然界の事象と私たち自身が強い相関関係を持っていると考える原点は、なにかそうした客観的な原理があるわけではありません。ですから、古代の天文の知識も正確なものがありました。
すべてにつながりがあると考えること、それは主観的なものです。そう信じる主観的な自己の状態にこそ、そうした考え方は端を発しています。つまり、明確に自己と他者の区別をつけないという考え方/世界観にその源があります。そして、そうした世界観に名づけられたものを、呪術的世界観、とよぶわけです。
呪術的な世界観の発生は、意識の発達する過程の中において、自然なことでもあります。
私達は、誕生した直後は自身の感覚しか理解できず、やがて、自分の指を噛めば痛く、毛布を噛んでも痛くないことを知り、つながりが無い部分があることを、理解していくきます(このような段階の身体的な心を基本にした世界観を「古層的世界観」と呼びます)。子供達が様々なものを口にしていくのは、そうした世界観があるためです。そして、そうした行動の中で、いろいろなことを学ぶわけです。古層的な世界観において、すべてを自分が統べている、と理解しています。
やがて自分と他者があり、自分がすべてを統べているわけではないことを理解していきますが、それでも、古層的な世界観から発達するだけなので、ひょっとすると自分ではなく誰かが、神秘的な力を持っているかもしれない・・・と、どこかで考えるようになります。そして、その神秘の力を持つだれかは、すべてを支配できるのではないか・・・とも信じています。
現代でこそ、そうした意識の相は、小さい年齢の世代のものであると説明していますが、それは、私達が、より先の意識の相を中心とするだけ、私達が私たちの世界観を先に進めたからです。そして、それを教育して伝えることができるようになったから、小さいときの認識の形であると述べることができるのです。
社会がまだまだ未成熟であった時代は、社会の主流を成している人々の意識の相は、成人してからであっても、大部分の人は呪術的な段階にとどまっていたと考えられています。それは、つい千数百年前までのことです。そして、今でもそうした考え方の影響は多く残っています。
そして、その時代の社会は、私達が想像する社会とは、まったく異なっていました。
私達が学校などで学んだストーリーでは、そうした古代社会は専制的な王が専横を極めていた社会として学んでいると思います。しかし、様々な調査により、実際はかなり異なることがわかってきています。自由主義に対する専制主義、のような視点は、共産主義者の考えたイデオロギー対立的な世界観の作り話であり、現代では否定されつつあります。
多くの人々が呪術的であった時代・・・それを見てみましょう。

03 金枝篇 / Golden Bough
金枝篇とサー・ジェームス・ジョージ・フレーザー
サー・ジェームス・ジョージ・フレーザー=著
メアリー・ダグラス=監修
サビーヌ・マコーマック=編集
内田昭一郎・吉岡晶子=訳
東京書籍 ISBN4-487-76158-1
\4660(税別)
Sir James George Frazer(1854 - 1941)

グラスゴー大学、ケンブリッジ大学を経て、1879年にトリニティー大学でフェロー(イギリスの大学の評議員)に選出され晩年までその地位にあった。1907年にリバプール大学で社会人類学の教授となり、1922年まで教鞭をとった。

呪術的な世界を語る資料はいくつもありますが、その中でも有名なものが1890年に出版されたサー・ジェームス・ジョージ・フレーザーの書いた「金枝篇(きんしへん)」です。オリジナルは巻数を重ね、全13巻に及ぶ大著です。日本語版は、過去には岩波文庫から全5巻で編集版が出ていましたが、今は絶版されています。私も中学時代に(古本で)買ったものが手元にあったのですが、さすがに変色が激しく、また訳も今の時代の感覚からはぴんと来ないものでしたので、今回は東京書籍から出版されている図説金枝篇をご紹介します。オリジナル全13巻を要約して一冊にまとめたもので、比較的読みやすいですし、図もいろいろと入っていて、面白い感じがします。
金枝篇という本そのもののご紹介は、この本の編集者で研究者でもあるサービック・マコーマックの書いた前書きから転載しましょう(本の帯にも転載されています)

ローマの近くにネミという村があった。その村には、古代ローマの時代より、森と動物の女神ディアナと、ディアナの夫ウィルビウスを祭った神殿があったるこの神殿では、男は誰でもその司祭になり、「森の王」の称号を得られるというしきたりがあった。ただし、祭祀になるには、男はまず神殿の森の聖なる樹から1本の枝-「金枝」-を手折り、それで前の祭祀を殺さなければならなかった。こうしてこの神殿の司祭職が継承されてきたのである。祭祀となるのに、なぜ前の祭祀を殺さなければならないのか? なぜ聖なる樹の枝を手折らなければならないのか? この二つの質問にたいする答えを求めるのが本書「金枝篇」の目的である。

サービック・マコーマック
図説金枝篇23ページ 編者前書き

この本が書かれた社会は18世紀末です。ですからちょっと読むと?な話題が出てきます。ですから、「金枝篇」について、そうした時代背景を批判する人もいますが、それは書かれている内容と時代背景の区別がないだけで、「金枝篇」で紹介されている話題は、現代でも貴重なものでもあります。

ま、読むと、未開人とか、今だと差別用語になる用語のオンパレードですし、そうした時代背景を理解できない人がいろいろというのもわからないでもありません・・・(^^;・・・この本の時代は、帝国主義もまだ生まれていませんでした。
また、著者のサー・ジェームス・ジョージ・フレーザーはすべてを伝承/伝聞に基づいて書き、自身は取材していないため、脚色されている話題のまま記されているものも少なくなく、そうした意味でも批判されているようです。しかし、サー・ジェームス・ジョージ・フレーザーの、現代的な神の概念が確立していない時代である呪術の時代に対する、その視点は、今でも重要なものとして理解されています。

金枝篇で描かれている時代・・・それは現代で理解されているような神(一神教の神)がまだ人に知られていない時代です。ですから、言葉では神と書きますが、ひとりではありません。人と交わり、死にもする神々の時代なのです。

04 女神ディアナ

この著作の中で、著者であるフレーザーは、ローマの近くにあるネミという村の不思議な風習・・・それをキーワードに、現代的な神を知らない、当時の人々の世界観、つまり呪術的な世界観を解説しています。
女神ディアナとはなんでしょうか・・・豊穣の神ディアナは、豊かな実りを代表し司ります。そして、その夫たる「森の王」とは、なんなのでしょうか・・・。
英語で書くと、ディアナはGoddess DIANAと書きます。ですから、日本語では女神ダイアナなんて書いちゃう場合があります。イタリアでディアナと呼ばれる女神は、ギリシャ神話ではアルテミスと呼ばれています。いかがでしょう。だんだんご存知の名前になってきましたでしょ。そして、ディアナ/アルテミスのイメージは、時代とともに、つまり人の意識の進展に伴い、変化してきました。

1882年 アレクサンドル・カバネルの描いたディアナ
1616-7年 オリオス・テラの描いたディアナ

私達が知っているディアナ/アルテミスのイメージは、16世紀以降の概念です。そして、それは金枝篇の書かれた時代でも同一でした。つまり、フレーザーの時代のディアナのイメージは私達の知っているものと、ほぼ同じです。
そのディアナは、美しい豊穣の女神であり、狩と処女性を司る女神でもありました。
しかし、その時代にありながら、イタリア・ローマの近くにあるネミという村に伝わる風習は、全く異なる様相を持っていました。神殿の司祭は「森の王」と呼ばれていました。そしてだれでもなることができました。しかし、そのためには、まず聖なる木の枝(金枝)を手折り、それから、それまでの司祭である「森の王」を殺すことで、新たな「森の王」となる・・・という風習が知られていたのです。
また、ヨーロッパに伝わる様々な風習の中には、ディアナに対する捧げもののとして、お祭りのときに、処女を外部の人々に売り、それの対価を供え物にするというものもありました。処女性を司るディアナは、処女を捧げものとして求める女神でもあったのです。
現代の感覚では、きっと、神と人の契約として、そうした捧げものが定められていたのではないかと思ってしてしまいます。しかし、それは違います。このような話題を聞いたとき、私達は、私達の限られた今の時代に基づく知識から、そうした「観念連想」をしてしまうため、誤解してしまうのです。
時代とともに人の考え方は進歩しており、当時は現代とは全く異なる考え方をしてました。それは神が求めたものというよりも、当時の人々が、自然とそうした発想をしていたと理解する必要があります。

世界の7不思議/アルテミス神殿

ローマ時代のディアナのイメージを見てみましょう。この図は、ビザンチンのフィロスが伝えた世界の7不思議として知られている、エフィソスのアルテミス神殿です。壮麗な建物であったようです。このような図を見ると、私達は、これまでにご紹介したような今の私達の知っているアルテミス/ディアナのイメージで、祭られているディアナを想像してしまいます。しかし、かなり違うディアナのイメージでした。祭られていたディアナは次の写真が示すようなものでした。
左図のディアナ像は、現代に復元されたものです。遺跡から発見された、2世紀に作られたエフィソスのディアナ像を基本に比較的忠実に作られています。
たくさんの乳房を持った豊穣の女神ディアナです。噴水になっているので、そうしたイメージがかえってわかり易いと思い、古い像ではないものをご紹介しました。
このようなディアナ像は、現代の私達からすると、女神ディアナというよりは、妖怪ディアナという感じですが、古代の人々にはこれが自然な発想だったのでした。
右の絵は「図説金枝篇」中で紹介されている5歳のcolin(だれの子だか知らないのですけど・・・)が書いた母親像です。乳房が多くあり、古代のディアナ像との類似が見て取れます。子供達が絵を描くときに、教師から明確に指導されないと、このような心象的な姿を絵に描く傾向があります。
この像の意味は明確です。自然における豊穣さを人を生み出す女性性に見出し、そのイメージが拡大されたものなのです。
そして、人を生み出すことの豊かさと、処女性の関係から、ディアナに処女を捧げることを象徴するため、処女を他者に売り、その対価をディアナに捧げるという発想になったのでした(後述しますが、古代において処女と未婚の女性は、大きく異なる話題でした)
「金枝篇」では、そうした発想に類する伝承/習慣の多くを挙げ説明しています。ちょっと関連する部分を引用してみます。

しかし、ここで問題になるのは、これがヒッポリュトスとどう関わってくるのかということだ。子を産まぬ処女にすべてを捧げた独り者の男の墓を肥沃にしようとするのか?石ころだらけの土壌にどんな種子が根を伸ばし、芽を出せるというのか?こうした疑問が生じるのは、近代の通説がディアナあるいはアルテミスを、狩りを好む貞操堅固な淑女の手本とみなしているからだ。だが、これほど真実から遠い見方はない。これとは違い、古代の人々にとっては、ディアナやアルテミスはこのうえなく肥沃で豊穣な自然界に生きる---植物や動物や人間の---野生の生命の象徴であり理想像であった。アルテミスの形容語として使われる「パルテノス」という言葉は(かるばどす注)、ふつう「処女」と訳されるが、未婚の女性という意味でしかなく、古代においては、処女と未婚の女性はけっして同じ意味ではなかった。ところが人間は道徳心が高まると、神々にいっそう厳しい倫理基準を課すようになる。神々の神々の残酷さや欺きや欲望を扱った話は、うわべを飾ってごまかしたり、神に対して冒?だとしてにべもなく退けたりする。そして、かつて法を破った悪党達を法の番人にしてしまう。

図説金枝篇
P53下段からP54上段
Typoと思われる語は修正しました

(かるばどす注)
Parthenos Athena(バルテノス・アテナ)のように女神を呼ぶことが多いのですが、その際のPartenosという語について述べています

そして、ディアナの成すことを代行し、捧げものとすることで、ディアナを支配し、従わすことができる・・・と考え、儀式が生み出されてきたのです。
言い換えると、このような習慣や伝承の基本には、そのような捧げものにより、人が神や自然に対してに影響が与えられると信じている世界観があります。そこに、形式として生み出されたものが、儀式や習慣であり、そしてそれは、呪術そのものであったのです。

05 呪術の原理

フレイザーは、呪術について2種類に分類しました。
類感呪術(homeopathic majic)と感染呪術(sympathetic majic)です。

呪術はどのようなものの考え方に根ざしたものなのか、その原理を分析すれば、次の2点に帰着するようだ。すなわち、一つは、似たものは似たものを生み出す、いい換えれば、結果はその原因に似るということだ。もう一つは、かつて互いに接触していたものは、その後、物理的な接触がなくなったのちも、引き続きある距離をおきながら互いに作用しあうということだ。前者を「類似の法則」と呼び、後者を「接触の法則」あるいは「感染の法則」と呼んでもよい。このうち第一の「類似の法則」の原理から、呪術師は、どんな事象でもそれを真似るだけで思い通りの結果を生み出すことができると考える。また、第二の「接触あるいは感染の法則」の原理から、呪術師は、誰かの身体とかつて接触していたものにたいして加えられた行為は、その接触していたものがその人物の体の一部であったにせよ、そうでなかったにせよ、その行為とまったく同じ結果をその人物にもたらすと考える。この「類似の法則」に根ざした呪力を「類感呪術」と呼び、「接触あるいは感染の法則」に根ざした呪力を感染呪術と呼んでもよい。

図説金枝篇
P60上段

処女が外部の人に対して処女を売り、それをディアナに対して捧げものにするという行為の意味は、類感呪術に基づくもので、豊穣の神ディアナに強く働きかけるための行為だったのでした。
こうした感覚は、古今東西に、様々な形態で私達の文明にその考え方が残されています。
右の写真は、世界遺産に指定されている、法隆寺の五重塔です。五重塔は、日本の仏教建築では、代表的なものです。そのルーツを辿ると、チベットなどの仏舎利塔があります。仏舎利塔とは、仏の遺骨である「仏舎利」を収めるものです。そして、五重塔にも「仏舎利」は収められているという伝承もあります。
今でも、仏教系新興宗教では、自身の正統性を示すものとして、仏舎利を如何に得るかで大騒ぎをしています。ちょっと考えれば、現代においてそうした遺骨が本当に保存できているかは、不明なのでナンセンスな気がします・・・率直なところ、本物の存在は、かなり困難でしょうね。

ある新興宗教のホームページで、チベットの田舎寺の写真を紹介しながら、「仏舎利寺」で仏舎利を受けた・・・なんて説明しているのを見て、目が点になったことがあります・・・(^^;

ここで重要な点があります。それは、仏舎利の真偽ではありません。それよりも、なぜ仏舎利を大切に考えるかに、重要な点があります。面白いのですが、仏教教義上には仏陀の遺骨が大切・・・なんて話題は、登場してきません。それなのに、寺を建立する際に、仏舎利の重要さが考えられていました。仏教建築の基本様式に組み込まれたのです。この背景は、仏教そのものではありません。仏陀の遺骨の重要さを信じる気持ち、当時の人々の世界観から生まれてくる、感染呪術的な感覚にこそ、そのルーツがあります。

もっとも仏教においては、塔が出てくるシーンはいろいろとあります。たとえば、法華経の多宝如来品(「たほうにょらいぼん」と読みます)などでは、地より沸出でた宝塔から多宝如来の大音声がして・・・というものです。多宝如来の遺骨があるわけではありません。多宝如来がその宝塔の中にあり、この世界のどこかで法華経が説かれた場合、それを褒め称えるために、地より沸出するのです。

また、現代の私たちも、遺骨などをとても大切に扱いますよね・・・特に日本人である私達は、遺骨と生前に生きていた人を区別しない傾向があります、その源は、呪術的な感覚にあり、その原理は感染呪術が基づく「接触あるいは感染の法則」とフレーザーが呼んでいるものにあります。

06 真の名、言霊、支配の原理

Carrie Newcomer
アルバム”My True Name/私の真の名”

Philo PHIL1223 (1998)

本文には関係ありません・・・(^^;
オーディオが趣味なものですから・・・

フレーザーが述べた古代の時代の呪術でとられる方法は、観念的なものではなく、物理的なものそのものや、行為そのものでした。呪術の方法は、古代において直接的なものであったのです。ですから、豊穣の神ディアナに対する呪術では、処女の女性は、それそのものを捧げものとしたのでした。
呪術的な世界観の時代において、様々な生贄や犠牲が見られる背景には、そうしたものしか理解できない、人々の視点にこそ、本当の訳があったわけです。

余談ですが、今の時代でも、若い世代の人たちが過度な自己犠牲の価値が高いと考え易いことや、古代インドの修行者たちが過度な修行により自身を痛めつけることに意義を見出していたことも、似た背景があるかもしれません。また、日本の中学生などが浮浪者を襲う意味や、いじめの対象に対して過度な迫害を行う背景にも、こうした視点が原因である可能性があります。犠牲を自身に求めるか、他者に求めるかの違いに他ならないからです。言い換えると、自身の信じるものに対して忠誠を誓い、自身がその主となる方法を、犠牲を求めることしか知らないと考えることが順当であるからです。

しかし、文化の進展により、人の意識も進展しました。そして、概念的なものが独立して成立していきました。つまり、人々は、抽象的な概念として、神や私たち自身を理解し始めたわけです。そして、多くの神々が、より独立したものとして登場しました。そして、私たち自身に対しても、人間も霊と身体を分けて認識していきます。認識する対象の本質が、物理的なものから概念的なものに進化したわけです。それまでの身体的な心から、心的な心へと相が移っていったのです。

ここでは、明確に相の移り変わりが区別できるように説明していますが、歴史的にはこれらの境界はかなり不明確でもあります。人を殺すことが悪いことであるとよく理解されるのは、心的な心の時代からです。

このように相が移ると、新しい世界観が人の中の主流となるので、呪術的な考え方は表面的にはもう見られなくなります。しかし、失われるわけではありません。また、伝統的に作り出された呪術の方法も、伝統として確立していました。そうした儀式的なものには、すでに確立した呪術の方法に対して、新しい概念が加えられていきました。こうした背景から、相手や自然を支配するための呪術に、物理的なつながりよりもより高度なものを使用するようになったのです。つまり、物理的なものよりも、より相手の真の姿を現すもの、真の名(true name)を使用するようになっのでした。
こうして、ヨーロッパにおける魔法の原理は、感染呪術の進化として、真の名を使うようになっていったのでした。すでにご紹介したアニメ「サイレントメビウス」で使用されている呪文の原理ですね。
同様に抽象的な概念として、言葉そのものがあります。そして、言葉そのものが対象と同じに実在し、対象に直接に働くという考え方も生まれました。「言霊(ことだま)」です。
日本においても、力ある言葉、言葉の真の姿である「言霊」という概念は、昔から知られています。そして、「言霊」には、示す意味を形にする力があると考えるられています。これは類感呪術の進化したものであると考えられます。
「言霊」は、古代の日本では一般的な考え方でもありました。
万葉集にも、言霊(事霊)という言葉そのものが登場する句が何句もあります。

志貴嶋
倭國者
事霊
所佐國叙 真福在与具
磯城島(しきしま)
大和(やまと)の国は言霊の助くる国ぞ
ま幸(さき)くありこそ

柿本人麻呂 万葉集 巻十三より

磯城島の大和の国: 枕詞で、大和の国に属する磯城という宮廷領のこと
ま幸: 真の幸せ
この歌は反歌で、海路の無事を祈っているものです。

現代の神道でも言霊は重要なものとして取り扱われており、いろいなシーンで言霊が登場しています。

右の図は、古代の出雲大社です。遺跡の分析から伝承どおり高さ24丈(96m)であったのではないかと考えられ始めています。そして、中世の時代で12丈(48m)、今は6丈(24m)です。12丈でも東大寺大仏殿よりも高い建築物でした。中世の時代の高さであった12丈の高さをベースにした再現模型です。10世紀前後の時代です。

また、言霊の感覚は、現代の私達にもまだ多く残っています。
例えば、いやなこと、希望しないことを口にしたくない人、多いですよね。若い女性には、特に多いような気がします。その理由を聞くと「本当になってしまうかもしれないから、言いたくない」という方が多いようです。つまり、いやなことが言葉として現れることにより、本当になってしまうことを、恐れる気持ちがあったりするからです。言霊、そのものの感覚です。

07 あらゆるものは直接にそのまま関係している・・・という思想

このような考え方の進展が、やがてあらゆるものの直接の関係を信じる世界観を形成していきます。
そうした背景から、呪術的な世界観や神話的世界観は、現代の私達からは想像もつかないような理論を展開していきます。
ガリレオは木星の月を観測して天動説を述べたのですが、それに対して、異端裁判の中で、「人の頭蓋骨の構造は宇宙の縮図であり、頭蓋骨の穴の数と惑星の数は一致するのだから、ガリレオの考え方は正しくない」と、現代の我々には信じられない考え方で反駁されています(詳しくはこちら)。そして、そうした反駁は、社会の安定のために必要でもありました。そして、ガリレオは社会に対する危険人物として、異端裁判にかけられたのでした。
星々の運行が、私達の生活や社会に直接影響を与えていると信じるのは、これまで述べた呪術的な世界観の下では簡単なことですし、実際に世界のいたるところでそうした考え方が残っています。すでに述べましたが、星占いも、陰陽五行を基にしている干支暦も同じ原理に基づいているわけです。

近年になり、占いは統計に基づいていると主張しているようですが、統計の原資料がある様子もありません。なんのことはない、科学的な仮面を被ろうとしているだけのようです。・・・といいながら、私も占いは好きなんですけどね・・・(^^;

チッチェンイッツァのピラミッド

周囲の階段の合計は365段、1年を示しており、春分/秋分の日には階段に蛇の影が現れます。

マヤの世界は天体観測から精緻なカレンダーを生み出していましたが、同時にカレンダーが示す文明の盛衰があると信じていました。そして、現実にそうした盛衰をマヤ文明は辿っていたようです。こうした盛衰の本当の原因は、マヤ文明が構造的に持っていた環境と人の不調和にあったようですが、マヤの人々は星々の運行の定めであると考えていました。

マヤ文明が衰亡した理由は、スペイン人の侵攻とマヤ文明の環境との不調和によるトラブルが重なったためと考えられているようです・・・・

写真のチッチェンイッツァでは、毎年神殿で球技が行われ、勝者が生贄となっていました。当時のマヤの社会の世界観では、、直接的な形をとる、生贄や苦しみが、大切なものであると考えられる傾向があったようです。そのため血塗られた文明という印象がありますが、古代ではそれほど珍しいとはいえない考え方です。そして、生贄となる者は、ある程度喜びをもって行った場合も多かったようです。強制されて、逃げ惑いながら捕らえられて、いやいや生贄にされたものは、少ないかもしれません。その理由は、現代とは考え方が根本的に異なっていたからです。
自身と世界の区別が不明確であること・・・一言で述べると、呪術的な世界観とはそうした状態で生まれてくる、世界観です。
余談ですが、現代に普通に話している言葉にも、そうした時代の多くの遺産が残っています。
たとえば、インフルエンザ(influenza)という名前です。この語源は、中世イタリアにあります。当時は、インフルエンザの流行の原因が、天空の星々の影響であると考えられていました。私達の社会の問題と、天空の関係について、強く信じられていたからです。インフルエンザ(influenza)とは、「天体の影響」という意味でした。

日本の資料には「寒さの影響」という意味もあると書かれていましたが、欧米の資料にはそれは無いようです。おそらく、天体の影響という考え方が突飛なものに感じる人たちが書き加えた内容が広がったのではないでしょうか。

08 現代にもある、異なった意識の相の表出

呪術的な世界観について、なんとなくイメージがお分かりいただけたかと思います。
現代においても、まだ、それは生きています。
そして、様々なところで現れています。
特に、現代の日本社会では、科学的な概念の進展と研究の結果、教育において呪術的な概念、神話的な概念、宗教的な概念が排せられています。まったく教育されていません。
そのため、逆に、若い世代においてそうした概念そのものが、素のまま表出されるようになっています。あまりいいことではないように思います。明確に意識されていないため、決別もされていないからです。もしも、過去の知識が世代に対して適切に伝えられていれば、ある程度洗練されて表出し、意識の進展とともに新しい相により適切に移行するのですが・・・。
若い世代に対して、段階的に対応した知識が伝えることが可能になることは自然でしょう。人が生まれるまでに、母体の中で生命の進化がそのまま行われるように、人の意識もそれぞれの相に応じて進展させるほうが、明確にそうした意識を理解できるので、有効です。残念ですが、教育は、そうは行われていません。幼稚園児に対して、科学的な教育を行ってしまいます。世界観はひとつだけ・・・と考えることが、現代における科学的な考え方の最大の過ちです。
私が子供の頃、「えんがちょ」という言葉がありました。今の子供達の語彙には存在していないそうです。アニメ「千と千尋の神隠し」で、そうした言葉が登場して、懐かしい思いを感じました。
この言葉の定義は、今の私達にはちょっと難しいのですが、子供の頃には簡単でした。この言葉は、禁忌の対象を示す言葉で、汚されたものに対する禁忌を暗示します。もしも、私達の現代社会において、呪術的な概念がまだ表面に多くあれば、それに対応する別な言葉が使用されているでしょう。しかし、それが無いために、子供たち独自の用語が使用されたのでした。
インテグラル・セオリーの研究において、世界観の進展に伴う心の相の変化が詳しく分析され、明らかにされています。
そうした中では、主流的な意識の相の変化が詳しく述べられています。歴史的な展開において、その分析は精緻で詳しくもありますが、現代において注意しなければならない点があります。それは、科学的な思考を行うように教育されている人であっても、意識されて理解された上で、それ以前の世界観が超えられながら相が進展しているのでないのであれば、呪術的な世界観、神話的な世界観が、その人の中にまだ形を変えて確固として存在しているということです。
ですから、そうした以前の相、言い換えるとより基底的な相に、その人が囚われてしまうことがあります。
日本における現代の私達は、意識の相に関係なく科学的な考え方を教育されるのですが、それだけに過ぎません。ですから、より以前の心の相について、認識しておらず、厳然として残っている場合が少なくありません。そうした古い相に囚われることで、人によっては信じられない結果を生んでしまうのです。

例1 酒鬼薔薇聖斗

酒鬼薔薇聖斗と自称した中学生による連続通り魔殺人事件で、犯行者が「バイオモドキ神」という(彼にとっての主観的)存在と自分の関係で、犯行の理由を説明したことに当惑した人が多かったと思います。

関係した話題はこちらでも述べています。

本人の意識の相は、明らかに進展が停止しているので、私達は日常の考え方によりこの思想を理解することはできませんし、理解しても私達には意味を成さないでしょう。

小学生や中学生によるホームレス襲撃事件の多くは、先に説明した「えんがちょ」の概念に基づく禁忌を行動に移しただけと考えることができます。これらは、かつて横行していた意味のない「いじめ」と、原理は同一であると理解するほうが妥当かもしれません。「いじめ」は面白いから行われます。なぜ面白いか・・・「えんがちょ」という禁忌であるからです。根本的には呪術的な世界観に基づく行動を抑制する考え方を若い人たちに提示したほうが、いい結果を得られるのではないでしょうか。

例2 ナチスドイツと呪術

ヒトラーやナチスドイツが、星占いや魔術/呪術に強い関心を抱いていたことが知られています。

右の写真は、ドイツ・フランクフルトのバザーで入手した金ペンによるヒトラーのサイン入り本です(サインは右下です)。当時の技術では写真製版はできなかったのか、アルバム形式になっており、100枚以上の白黒写真が貼り付けてあります。その写真の状態が良いので、驚いて購入しました。この本を売ってくれた人たちは、普通の家庭で、おじいさんはこの本を、結構誇らしげにしていました。家族の人たちは、こんなもの・・・という感じでしたが・・・。この本に収録されていた写真の一点は、こちらに収録しました。

現代の代表的な兵器の原理は第二次世界大戦中に作り出されました。その中でも、ナチスドイツは、弾道ミサイル、誘導ミサイルなどを開発しましたし、世界初のジェット戦闘機やロケット戦闘機を実現し、高速に飛行するために必要な後退翼などの研究も行っていました。

余談ですが、第二次世界大戦中に開発された航空機用プロペラエンジンは、作る技術がもはや失われたために、現代ではもう作れないといわれています。

そんなナチス・ドイツは、そうした先端的な研究と同程度の感覚で、呪術や魔法の研究を行っていました。当時のドイツで行われた呪術的な兵器の実験の中には、地球が球体ではないという考え方に基づくものもあったり(大地は地球の裏側にあるという考え方でした・・・(^^;・・・)、まあ、今の時代からすると理解できない原理のものも多くありました。もっとも、v2号ロケットのような成層圏を超える様な兵器は、当時としてはSFみたいな話題でしたから、普通の人からしたら魔術とロケット研究は似たり寄ったりであったのかもしれません。ただ、ドイツで核兵器の開発は進展しませんでした。その理由は、予算の不足のためか、研究者の意図的なサボタージュによるものか、それとも研究者の無能力のおかげか、今もわかっていませんが、ともかく成功しませんでした。この話題については、詳細なドキュメンタリーが書かれています。

ロンドンを攻撃するV2(A4)号ロケット
魔術や呪術がドイツの兵器研究の最先端というわけではないでしょうが、そんなことに予算が付くというだけでも大変なことです。また、ヒトラーの決断の多くは、星占いも併用していたようです。もっとも、これとドイツだけではなく、いろいろな国でそうであったようですが・・・。

当然、相手国の首相の呪殺や、戦争の処理の祈願も試みていたでしょう。それは、どの国でも行われていたようです。
今でも、企業の決断に占いをしてもらう人もいたりします。そうした背景には、なんらかの安心感が欲しい・・・そんな気持ちのために、呪術や魔術の知識や感覚に頼りたがる人の姿があります。

例3 地下鉄サリン事件

日本にも世界に例を見ないようなテロ事件がいろいろとあります。オウム真理教の行った一連のテロ事件は、その典型的なものです。その中でも、代表的なものに地下鉄サリン事件がありました。死者12人、傷者5498人という、日常を襲った恐るべきテロ事件です。
その背景となっている信念と世界観は、ほとんどの人にとって理解しがたく、狂気にしか感じられません。しかし、事件の当事者達には、合理的で強く信じていたことだったのでしょう。
現代日本ほど宗教的な知識を教育されていない文化圏は、世界的に例を見ません。現代における多くの日本人にとって、宗教とは儀式そのものに過ぎません。ですから、第三者的に見ていると、宗教と狂気とは、同じに感じられることすらあります。
しかし、そんな状態の人たちが宗教的な概念や思想に触れたとき、また、宗教的なトレーニングを受けたとき、知らなかった世界の概念に圧倒されてしまうことがあります。呪術的な概念と同様に、明示的に超えたものではないからで、知らないだけであるためです。
宗教的概念/神話的世界観は、現在の私達が基づく心の相の直前の相であり、呪術的な世界観よりも、より強い力があります。ですから、そうした相に私達が囚われるとき、信じられない行動をとります。それも、より組織的に・・・。呪術的な概念の時代に大国家が形成されないのと同じで、宗教的概念が理解できる段階に、より大きな組織が構成できます。しかし、宗教的な考え方に基づくその行動は、現代の私達には容易に理解することはできません。私達が通常拠って立つ意識の相より以前の意識の相に従っており、理解するための基盤を共有していないからです。

■洗脳と宗教を支える変性意識・・・諸刃の剣の強烈な精神体験■
オウム真理教の問題を分析するためには、「変性意識(Alterd States)」という人の心の状態を知る必要があります。あまりいい訳語とは思えませんが、人の意識の別の状態を意味しており、通常は意識されることの無い潜在意識につながった意識の状態であると考えられています。
「変性意識」は、神秘体験の母体となります。そして、「変性意識」というキーワードは、オウム真理教の稚拙な教義を補完するために、彼らが意味もわからず行っていた修行と彼らが呼ぶ行為と、教団の狂気に関係があります。そして、その体験こそ、彼らが教義を信じる拠り所でもあります。
私達の心は、環境から与えられるストレスが過度になると「変性意識」である心の状態を作り出す場合があります。その状況において、いろいろな強烈な体験を主観的にします。この体験は本人のいる文化圏により異なり、様々な形態をとります。多くの場合、神秘体験となります。その状態にある人に対して、体験を説明する考え方を提供すると、その考え方をすべて受け入れてしまうことがあります。それを「洗脳」といいます。このような方法は、実は過去から知られており、宗教と関係ない世界でも行われています。過去にソビエトや中国が強制収用した人に行ったことなども同様な状況を作ったはずです。ですから、「洗脳」が成立します。一部に誤解がありますが、洗脳とは、繰り返して伝えることで人の考え方を強制するものではありません。ですから、一つの知識しか知らないでいるために決まった反応するという話題は、本質的には洗脳ではありません。単に知らないだけだからです。洗脳は反する話題を知っていても、決まった結果をもたらします。本人がその結果を正しいと信じているからです。ですから、オウム真理教における麻原彰晃を如何に貶めて実態を明らかにしても、ある水準に至っていた旧信者たちは承服することはないでしょう。それが洗脳です。
「変性意識」には、強烈な心的イメージが伴うため、人の考え方に強力な影響があります。より以上の強い印象が伴わない限り、その時に刷り込まれた考え方は払拭が困難であるといわれています。インドなどに端を発する宗教で伝えられているいくつかには、宗教的トレーニング方法が確立している分野があります。このトレーニング方法は「変性意識」を管理しながら作り出します。そうしたトレーニング方法を、オウム真理教で方法論が形だけ真似されたため、異常な管理下で狂気の思想が刷り込まれてしまいました。「変性意識」による心の動きは、人をより覚醒に導くだけではなく、そうした狂気に導く可能性もあるため、危険なことであると理解されています。現代の日本仏教では、段階的で穏やかに「変性意識」を現出させ、より進展した意識の相を理解するための方法が確立しているといわれてます。たとえば、「禅」です。禅に基づく生活の中で様々なことを理解し、深い印象を得る原理も、穏やかな「変性意識」の利用と言えるかもしれませんね。
「変性意識」は、ここで述べたようなネガティブな話題だけではなく、新約聖書に残されているいろいろな手紙で述べられているような物語のように、様々な歴史的展開の中で人の方向を定めた重要な体験の背景にあったとも考えられています。「変性意識」には、善悪の性格は無く、諸刃の剣なのです。

最近になって、やっとイスラム原理主義の他に、キリスト原理主義について一部のマスコミが話題にし始めました。

2003/3/2のサンデープロジェクトで、アメリカによるイラク攻撃問題の背景で、キリスト教原理主義の関係について説明するTV番組がありました。こんなのは何年も前から知られている話題で、その問題や危険性が指摘されていました。
あまり話題にされていない重要な点で、イラク攻撃とイラク武装解除を混同している報道が多いですね。攻撃的な能力についての武装解除については世界で同意されています。これは、法の下にすべては平等・・・ともはや世界は考えていないことを示しています。そのうちその背景を説明したいと思います。大切な点で、ホラーキーという概念を説明する必要があります。

なんで今頃に原理主義を話題にするのかと思いました。なぜならば、オウム真理教も仏教原理主義に分類すべきものであり、私達はずいぶん昔にニューヨークの惨事と同じ意味をもつ体験をしていたからです。オウム真理教の話題が出たとき、日本人の多くが宗教的概念を理解できなかったため、原理主義的なものをちゃんと分類して受け止めることができなかったのでしょう。
原理主義と語られる宗教のほとんどは、マイナーであり、そして宗教に関係ない人たちから見ると、それは狂気でもあります。宗教的概念に取り込まれること、そこにも呪術的な概念に取り込まれてしまった子供達と同様な、悲しい姿があります。

ただ、ここのコンテンツでは宗教的な概念の話題をこれ以上組み込むことは、範囲が広がりすぎるので、この節だけで終えておこうと思います。幸いにも日本では宗教的な話題の展開は少なく、呪術的な概念の話題のほうが適応します。宗教的な話題は、将来に改めて・・・。

09 ハンドルを持つと変わる性格・・・(^^)

ペルソナ(Persona)という言葉をご存知でしょうか。
日本語では、外的人格とかに訳されています。
私達は、社会的な生活を行うために、知らず知らずのうちに処世術として学んだものが形成する人格があります。それがペルソナ/外的人格です。しかし、そうではない人格も依然として存在しています。内的な人格といいます。
ペルソナは仮面に例えられていますが、いずれも自分であることに変わりはありません。つい、内的な人格が真の姿で、ペルソナは偽りと思うことが多いですが、そうではありません。何れも真の姿です。
ペルソナは個人の対外的な関係で現れるものであり、状況により異なるペルソナを選ぶ場合も少なくありません。
例えば、仕事における人格と、家庭生活における人格が違う場合などがあります。人は、社会的な立場によりペルソナを使い分けますし、その方が自然でもあります。社会生活では様々な責任や義務も多くあるからです。そのような社会的な立場は、人の自然な姿からしたら、違う状況であり、それにも関わらず自然な自分でいるということは、状況に対応できないだけのことに過ぎません。
ですから、仕事の上で対立を気にもかけず強力に仕事を進める人が、家庭では極めて温和であったり、なにもできない人であったりすることがあります。それは、当然の姿でもあるかもしれません。両方の総和で個人は形成されるからです。一方に偏るほうが、バランスを欠いています。
また、同じ状況であっても、緊張している場合や、リラックスしている場合で、異なるペルソナを選ぶ場合もあります。
普段はおっとりしている人が、問題が発生すると毅然とた態度になる人がいたりしますよね。その逆に、普段毅然としている人が、問題が発生するとなにもできなくなる人もいます。それは行動心理学ではいろいろと分析されており、分類もされています。そうした状況は、いいとか悪いとかいう話題ではありません。そして、ペルソナがいろいろとあることにも、いいとか悪いということはありません。
このように、いろいろな側面で、異なる自分が現れてきます。
たとえば、自動車を運転すると性格が変わる人がいます。車の運転を通じてその人の考え方が表出します。そして、それは日常の生活とは異なるため、現れてくるのは別なペルソナでもあるのです。車の運転を通じて、別な形の人格が発露するため、攻撃的になったり、慎重になったり、興奮しやすかったり、冷静だったり、日常ののその人とは異なる側面が出てくる所以であり、「ハンドルを持つと性格が変わる」といわれる理由でもあります。

ハンドルをもっている時が本当のその人の性格だ・・・という人もいますが、それは言い過ぎというものです。

同様に、インターネットでも、「ハンドルを持つと性格が変わる」といわれています。特に、ネットワーク上で表出するペルソナをオンライン・ペルソナといいます。オンライン・ペルソナの外見的で、統計に基づく特長については、社会心理学により分析が行われています。そうしたものが示すものだけではなく、さらに踏み込んで、意識の相としてオンライン・ペルソナを見つめたときに別な姿が見えてきます。

オンライン・ペルソナをベースにした話題として、かるばどすほふに「ネット社会の実相 (浜崎あゆみファンサイト荒らし問題の真の意味)」があります。このコンテンツは社会心理学的に分析された結果に基づいて書いています。他のサイトを直接的に荒らすという異常な行動をとっていた人たちに対する分析の中で、そのオンラインペルソナの特徴と、さらにそうした行動の背景に性的な衝動があったであろうと分析を述べています。しかし、間接的な関与者である、浜崎あゆみに対する作り話で誹謗する人たちに対しては、存在と特徴を述べるだけで、分析を示していません。その分析は、社会心理学的分析ではできないからです。行動の意味にキーワードがあり、社会心理学が分析し得ない点であるからです。そして、これから述べるオンライン・ペルソナの特徴に対する分析は、別な角度からその意味に踏み込んで説明をしています。

はじめてインターネットにアクセスした人は、ブログなどで見る発言に驚く人が少なくありません。ブログによっては、社会的な常識が、まったく成立していないからです。

「△△うざい」
「○○逝け」

はじめてそうした実態を見た人たちは、おどろおどろしいものを感じたりするようです。私もそうでした。内容を見ていると、書いている人の若年さを感じる言葉が多いのですが、調べてみると、本人の年齢とはそう関係はないようです。
実は、これらの言葉の本質は、言葉どおりに過ぎません。単に、呪っているだけだからです。それ以上の意味も、それ以下の意味もありません。その人にとっての意味があるだけです。ですから、コミュニケーションにもならないわけですが、同じタイプの人たちが集まることはできます。で、独特な雰囲気が、掲示版によっては生まれてしまいます。
オンライン・ペルソナで表出されていることの意味を見つめると、驚くべきことに、すでに述べたような呪術的な世界観に基づくものが少なくありません。
そうした行動がネットワーク上に表出する理由は、簡単です。オンライン・ペルソナの性格がそうしたものであるからです。そうしたオンライン・ペルソナの姿となる理由は、人の中に多重に存在している意識の相の違いを直視しないと理解することができません。

10 インターネットを支える時代遅れな思想・・・フラット&ウェブ

インターネットを支える基本思想、それは、フラット&ウェブ・・・・・・対等の関係が織物のように相関関係をなす事・・・それにより世界を形成するということです。
そうした考え方の以前は、階層的に世界を構成するという考え方がありました。長い間それは人間社会において主流を成していた考え方でもあります。
私達が社会の構造を思うときに、絶対的な階層構造があることを信じていた時代があります。また、世界の中では絶対的な(しかしうつろい易い)階層が厳然として実在している社会も少なくありません。たとえば中国やイラクのように・・・・。
階層的な考え方は、いろいろな国家や会社組織の構造に反映していましたし、そうした構造は信じられてもいました。ですから、共産主義的な発想である搾取階級と搾取される階級に世界は分けることができるという小説の世界のような18世紀的な話題を、最近まで無批判に信じている人が多かった背景ともなったようです。
フラット&ウェプとは、階層的な考え方に対する本質的なアンチテーゼであり、思想でもあったわけです。この発想の源泉は、科学的な思考にあります。科学的な考え方の浸透により人の相違点がないことが知られ、王や貴族は階層から引き摺り下ろされました。その後に残っていた、人の意識にあった階層の頂点にあった神も死に絶え、階層は倒壊しました。ですから、フラット&ウェブは当然の考え方でもありました。
昨今の日本の企業で行われている改革でも、フラット&ウェブとよく語られているようです。日本企業は、右上がりの経済の時代に軍隊のように階層的に組織を構成してしまっていたため、それができなくなったとき組織は腐敗臭を漂わせ、企業を危機に陥れました。そうしたこれまでの構造を破壊するには、適切な考え方でしょう。階層の対極を成す考え方なのですから・・・・。
もっとも、残念ですが、フラット&ウェブという考え方の企業への導入は、適切に管理されないと、改悪になることのほうがほとんどかも知れません。なぜならば、旧来の考え方に対する反動に過ぎない思想であり、実はそれほど真実な考え方とは、やはりいえないからです。企業を例に取れば、フラット&ウェブは、専門家とそうでない人たちを対等に取り扱うので、企業の専門性を破壊し、特徴を失わせます。つまり、競争力のない、流行の後を追うどうしようもない企業を作り出します。
実は、日本の企業は経営者は昔からフラット&ウェブの考え方でした。組織は属人的ではいけない・・・人は入れ替わっても組織は機能しなければ成らない・・・と信じていたからです。つまり、代替可能な交換部品とみなしていたわけで、フラット&ウェブそのままの発想です。しかし、組織だけは階層的でした。管理しやすかったからでしょう。ですから、個性ある人材を排除し、組織は硬直したのでした。ちょっと余談でしたが・・・(^^;
フラット&ウェブという考え方は、すべてが対等であることについて無批判に盲信している点があります。すべてが対等であるためには本質的にはすべてが同質であるという前提があります。異なる観点や思想が存在していても、全体に対して悪意を抱いていないという同質さを前提にしてるのです。つまり、意識の相においては、同質であると考えています。言い換えると、それぞれの質の違いという認識がないのです。

実際の世界は、ヒエラルキー(階層)でも、フラット&ウェブでも正しく理解できません。正しい理解のためには、ホラーキー(ホロン階層)として実際の世界を捉える必要があります。ただ、その詳細は、ここではご説明しません。将来のお楽しみに・・・

11 仮想呪術空間 インターネット

この現実とは異なる世界観のため、設計者達とは異なるまったく異質な考え方がネットワーク内に存在すると、様々なトラブルが発生してしまいます。時々、ウイルスやワーム、明確な悪意によるアタックにより、ネットワークが機能不全になる理由・・・その根本的な背景は、そうした存在を拒否できない設計思想にあります。つまり、技術基盤を設計した人たちの考え方にこそ、本当の原因があったのでした。技術的な話題はその表面的な議論に過ぎません。誤解のないように説明を加えますが、これはいいとか悪いとかいう話題ではありません。単に、そうした必然性がネットワークのデザインそのものに内包されているというだけのことです。

もちろん、対応するための機能も多く開発されていますけど・・・イタチゴッコになっています。実は、昔にメインフレームと呼ばれるコンピューターで構成されていたネットワークシステムは、そうした脆弱性はありませんでした。その代わり、管理が大変でした。

そして、そうした話題は技術的な点だけではなく、ネットワーク内の様々な人々の姿そのものにも見出すことができます。
私たちが今見出す、オンライン・ペルソナが織り成すネットワーク上の仮想的な社会の実態そのものが、インターネットの設計者達の考えたものとは、大きく異なるものとなりました。
当初のネットワーク社会は、限られた人たちによる同質な人たちの世界でした。ネチケットと呼ばれたローカルなマナーを守り、特殊な世界を形成していました。インターネットが、一部の、性格的に近い人たちが共有していた場合には、それで十分でした。しかし、商業的なルールを導入し、だれもが利用できるようになったとき、いろいろな人々のオンライン・ペルソナがそのまま表出するようになりました。そして、多くのオンライン・ペルソナは、科学的な教育だけを受けている現代の教育システムの結果か、いろいろな特徴を見せています。その中で目立つ点のひとつは、呪術的な話題に無防備で、影響を受け易い特徴があることです。
実は、簡単な質問だけで、その呪術的な気持ちがあることを、お分かりいただけます。

あなたは、インターネットには、なにか強い影響力があり、社会のいろいろなことに、意味ある作用がある・・・と信じていませんか・・・?

もちろん、コミュニケーション手段としてみたとき、インターネットは有効な能力をもっていますので、十分に意味ある力があります。だからといって、過大に評価することはできません。
今では笑い話ですが、ちょっと前には、インターネットにより既存のマスコミは意味がなくなり、新しい時代が到来する・・・なんて、偉そうに述べていた評論家とか、たくさんいました。また、流通は新しい時代に移行し、ネットワークという仮想世界が、それ自身で利益を生む・・・なんて馬鹿話をえらそうに述べている人、たくさんいました。私は技術者なので、インターネットとは単なる電線と、その先にアプリケーションがいる・・・くらいに、つまり事実に即して技術的にしか認識していません。そして、インターネットにまつわる法螺話をしている人の話を聴く毎に、そんな馬鹿なことあるかい、と反論していました。ネットワークなんて、どれほど基盤となっても、本質的には裏方です。インターネットの上の話題が進展したとき、そのときはインターネットが主役のはずはありません。社会や経済の主役は、いつまでたっても、そりゃ、人でしょうに・・・。
そんな当たり前のことを人が忘れる理由に、その背景を理解するためのキーワードが潜んでいます。
なぜ多くの人がインターネットに対して過大な思いを抱くのか・・・率直な話、一部は、投資家を謀るための法螺話でした。なにしろ、無の世界から利益を生むと真剣に主張している人がいたのですから、法螺としか言いようがありません。ずいぶんといかれた話題です。
そして、そうした話題に関係ない大部分の人たちは、なにをインターネットに見出したのか・・・。その答えは簡単です。なにか、未知の力ある存在を信じたのです。つまり、インターネットが呪術的な力を持つと思ったのです。

コンピュータとして初期に開発され有名になったENIACです。余談ですが、世界初のコンピューターは、アタナソフ・ベリー・コンピューターです。

実は、過去にもそうした対象がありました。コンピューターです。コンピューターは人に取って代わり、人間がスポイルされると、多くの人が信じていた時代が、ちょっと前までありました。過去に労働組合が本気で大騒ぎしていたのをご存知でしょうか・・・。合理化反対の理論的背景です・・・なにが理論的だかわかりませんけど・・・(^^;。実際のところ、人をスポイルしたのは、コンピューターではなく人でした・・・。 なにか、インターネットなんかには未知の恐るべき力があり、それは世界を支配する力がある・・・この話題こそ、すでにご説明してきたような過去の人々が、妖精と神々に見出したことと同じなのです。
現代におけるインターネットのイメージとは、呪術の世界の話題として理解されているものそのものです。そして、そうした背景からインターネットにおいて、呪術的な話題が横行しやすくなってしまいました。
ですから、オンライン・ペルソナ(人のネットワーク上の姿)の反応もそうなります。bBSなどでよく見かける「逝け」などという言葉に代表される、様々なおどろおどろしい言葉・・・それは、言葉どおり、「呪い」なのです。初めて見た人が、気持ち悪く感じることも、道理です・・・。
そうした特長は、特に日本においてよく見られるように感じます。欧米での話題は、宗教的基盤が強いため、呪術的な概念は抑圧されてしまうからではないでしょうか。

12 ネットワークで、背景のない騒動が多発する理由

火のない処に煙は立たず・・・しかも、その火が実は話題とはちっとも関係がない・・・という騒ぎが、インターネットでは少なくありません。調べてみると、火がある場所が話題そのものではなく、話題を述べる人の中にだけあることが多いので、そうなってしまうのです。
実は、私はそうした傾向があることについて昨年まで気づきませんでした。根がコンピューターの技術屋なもので、普段に見ている世界がネットワークでも違います。私の身近な世界ではいろいろな情報交換や意見交換に使われているため、かなり理性的です。それほど激しいフレーミング(発言の応酬)もありません。ですから、全く異なる展開があることに気づけなかったのです。
しかし、浜崎あゆみのファンであると公言して、コンテンツを用意してから、期せずして、それまで知らなかった話題にもいろいろと触れることがありました。
その中で、ここでご説明しているようなことを考えるきっかけになった話題が、「浜崎あゆみのファンサイト荒し」問題の一件でした。

ネット社会の実相 (浜崎あゆみファンサイト荒らし問題の真の意味)

この一件は、いろいろな意味で、私にはわかり易いものでした。このきっかけとなったコンサートに私は行っており、しかも、話題になっている席を見れる位置にいたからです。その上、その話題になっている席の取り扱いが他の席と違っていたため、どのような人が座るのか、物好きなので、双眼鏡まで使ってよく見ていたのでした。そうした私にとって、すべては目前のことでした。ですから、ネットワークで繰り返し話題になった内容は、まあ、笑止千万な話題でした。そんな背景から、放っておけば収束するのかな・・・ぐらいに思っていたら、そうはならずに、一部でだんだんと極端な状況になっていき、ファンサイトのBBSを荒すという、異常な行動を取る人まで現れるようになったのです。このような極端に話題がなる傾向を、集団成極化といいます。実は、社会心理学では、すでにそうした傾向がオンライン・ペルソナの社会で生まれ易いことが分析されており、それらについて、意味を分析したコンテンツを書いたのが、すでにご紹介したネット社会の実相でした。
この分析は、それはそれで完結しているのですが、ファンサイト荒しという異常な行動を取る人たちについての分析であり、遥に数が多かった、浜崎あゆみを貶めたいという人達そのものについては、意図的に分析していません。そうした分析は、社会心理学の視点では困難であったからです。社会心理学は、集団としての特徴を分析するものであり、特定の行動を分析することは困難です。ですから、事実などお構いなしに、自分の主観から決めつけていろいろと言いがかりをつけている人たちの背景を理解するには、別な視点が必要です。
膨大な時間と労力を費やして、的外れな努力を通じて、本当はなにをしたいのか・・・恐らく、そうした行動に集中している本人も、その目的は知らずにいるはずです。
そうした理解のためには、当初、アドラー心理学のような視点(権力志向から人を分析します)が必要かと思っていましたが、想定される年齢層や、目的性の欠如から、そうした観点では足りないことに気づきました。
キーワードはいくつかありました。
ひとつは、多くの人々が信仰している新しい神である「科学的な発想」がもたらした世界観・・・あるゆる人は平等である・・・だから、成功しているように見えるものは、なんであれ引き摺り下ろしたい・・・という、感覚です。この感覚は、世界でも日本人に強いという意見が、よくあります。
もうひとつは、その表現の仕方そのものです。なぜそうした行為が、インターネットでのくだらない表現になっていくのか・・・その答えは、原初的なものだったのです・・・つまり、現代に息づく呪術性なのでした。それは、本人が意識していないからこそ、呪術的な形態をとってしまうのです。
インターネットでのそうした行為とは、インターネットという呪術空間のために考えられた、新しい呪いの手続きを執っているに、過ぎなかったのです。
そしてそれは、浜崎あゆみを貶めたい人達だけではなく、ファンの人たちにもおおく見出されるものでした。
そう、浜崎あゆみの強い影響力は、ファンだけではなく、そうでない人たちにも強くあったのでした。
これは、ちょっと考えると誰にでもわかることでした。なぜならば、「好き」の反対の言葉は「無関心」であり、「嫌い」ではないからです。話題にし過ぎるだけで、十分に強い影響を受けていることを告白しているようなものです。

こんな話題は、なんか、気をつけないと恋愛論になりそう・・・(^^;

13 ファンとなってみて・・・

浜崎あゆみのファンとなり、2001-2002カウントダウンコンサートから、コンサートに通うようになった私は、それまで知らなかった不思議な体験をいくつかすることができました。正確に言うと、体験するため、形からもファンとして徹底してみたのでした。ですから、普段もマテリアル・ボーイを着ています・・・(^^)v

実は、人生の中でファンらしいことをしたとが無いのが私でした。つまり、ファンとは人生初の体験ということですね・・・。ですから、体験の多くが新鮮でした・・・。本心から、不思議な体験だなーと思っていたのでした。関係しているコンテンツは、以下のリンクからご覧ください。
浜崎あゆみ思跡ツアー
ぴんちぃ〜ぷぅ〜(濱崎歩)もびっくり 大型歌会の裏の裏 見聞編
ぴんちぃ〜ぷぅ〜(濱崎歩)もびっくり 大型歌会の裏の裏 解説編

その不思議な体験で印象深かったもののひとつが、浜崎あゆみの動向が気になったりした自身の心の様相です。率直なところ、なんでかなーと思いましたし、それを突き詰めて、ああ、なるほどと、自身の中のあった共感するものを確認していきました。それは、理解しやすいものでした。

この辺りの話題は以下のコンテンツに詳しく述べています。
風になれ! 
01 さて、いきなり、本論!

しかし、理解しにくく、共感もしにくいものもありました。
それは、いろいろな話題の展開の中で垣間見た、様々な人達の心の様相でした。
浜崎あゆみに依存しきってしまうファンの人たちの気持ちと、まったく逆に、必死になって否定したがる人たちの気持ちが、ともに理解しくかったのです。率直なところ、いい加減ある程度年齢を重ねた私からすると、いずれもピンと来ない話題でした。いずれも、似たように感じられたからです。すでに述べたように、「好き」の反対の言葉は「無関心」・・・「嫌い」は「好き」と紙一重・・・。なんで、そうなるのかね・・・としか思えませんでした。
そんな私でしたので、ファンサイト荒らし事件の際に、ファンサイトを荒らしている実行者については分析をいろいろとしていますが、そうした卑劣な行動には至らない、しかし必死に浜崎あゆみを否定したい人たちについては(けっこう数多くいたのですが)そうした人たちについては、その事実を述べながらも分析を控えました。

この辺りの話題は繰り返し紹介していますが、以下のコンテンツに詳しく述べています。
ネット社会の実相 (浜崎あゆみファンサイト荒らし問題の真の意味)

このコンテンツで言及しなかった、必死に否定したい人たちは、もちろん自身では、そうすべきと信じる確信があったのだと思いました。不思議に感じたのはその確信の源泉と、その行動パターンそのものでした。
不思議に感じた理由は簡単でした。なぜなら、書かれている内容が、率直なところ破綻している場合が多く、ほとんど説得力が無かったからです。それでも共感する人たちがいますし、なにかを期待しているようでもありました。
そこに垣間見たもの・・・現代の呪術を見出したのでした。
かつての呪術は、具体的な実りのために行われました。
そして、現代の呪術は・・・空虚な自身の中の実りを満たすために行われていました。ほとんどの行動は、自身の影響力を確かめるための行動であったからです。それは、仮想呪術空間インターネットにおける、呪法であったのです。
現代において、人生の意味も、世界の意味も、だれも教えてくれません。
それは、主観がもたらす意味性を、教育から排除した結果です。
しかし、人の中には、それを看過させない力があります。
その力は、ある人には、浜崎あゆみそのものになにかを見つけさせ、また、ある人たちには、浜崎あゆみを媒体として、自身の意味を知るための強い誘惑を与えたのでした。そして、後者のときに、現代における呪術の形態をとらせたのです。
実は、インターネットの世界でなくても、そうした行動を取らせる場合は散見されていました。一部の報道関係者の理解しにくい不思議な偏向した正義感?にそれが見出されます。実のところ、報道媒体という彼らにとっての呪術媒体・・・(^^;・・・を弄んでいるとしか思えないものが少なくありません。ですから、浜崎あゆみファンサイト荒らし問題のときにも、報道をしているつもりである発言が多く見られました。同一の気持ちがあるのでしょう。
こうした観点から理解すると、ファンとアンチ・ファンは、本質的に類似点があります。
この場合において、ファンも、アンチ・ファンも、本質的な背景では、同じ力が働いているだけのことだからです。彼らの、表現形態が違うのです。このように理解したとき、なぜ、「好き」と「嫌い」がこれほど目立ったのか、納得できます。いずれも、浜崎あゆみの強い影響下にあったのでした。

率直なところ、こう理解したときに、浜崎あゆみの運命ってどうなっているんだろうかと思いました。多くの人の気持ちをすべて受け止める運命というのは、凄いですね。そして、それから一歩も引かず、よりファンと交わろうとする今の彼女のあり方には、彼女の資質と力を感じます。

14 呪いから祈りへ・・・羽のない天使が溢れている時代に・・・

すでに述べたように、呪術的世界観は私達の比較的基底的な世界観ですが、主流な世界観ではありません。それには、理由があります。そこには、真実がまだないからです。私達の意識の相が、進展する理由は、そこにあります。
意識の相と共に、私達が感じるあらゆる力は形を変えて行きます。

もしもあなたが澄みきった意識で、より低い状態、あるいは、たとえ汚れた状態に入っても、そのときの状態は意識に応じた知恵に変容する。
気づきをもって激情に入れば、慈悲心を見出し
気づきをもって怒りに入れば、明晰さを見出すであろう。

万物の歴史 p314でケン・ウィルバーが要約しているスーフィズムや
仏教に見出される観念の説明部分を、ちょっと書き換えています。
この部分は、こちらのコンテンツと連携しています。

そして、呪いは、祈りへと昇華していきます。
祈りとは何でしょうか・・・・

「・・・どのような祈りが、人間には許されるのか。外を眺め、何か見知らぬ美徳によって、見知らぬものを得たいと祈り、自然と超自然の果てしない迷路に迷い込み、奇跡と仲介を懇願する。このような、なにか特別のものを得たいと願う祈りは、悪性である。真の祈りとは、人生の事実をそのもっとも高い視点から観想するものである・・・」

ケン・ウィルバー 進化の構造vol1 p470
エマソンの著作の引用部分より
この部分は、こちらのコンテンツと連携しています。

自身の力を、呪術の力に頼らず知ることができるようになれば・・・人生の事実をもっとも高い視点から観想することができるとき・・・あらゆる呪術は力を失い、きっと人の中にある、本当の力が見出されるでしょう。

......
例えば信じるもの
何ひとつなくなったとして
例えばそこにはただ
絶望だけが残ったら
どうかこの祈りを
羽のない天使が
あふれている時代で
.......

浜崎あゆみ Endless sorrow より



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