トップページ CG オーディオ 音楽 カメラ ディープ やっぱ書いちゃう お気楽 喰いしんぼ、のんべ あちゃこちゃ ダイビング 自転車 映像 パソコン 真面目 宣伝 ブログ
風になれ! 浜崎あゆみのシッポの秘密 妖精と・・・魔法と・・・現代

風になれ! 外伝 II

これは書きすぎ・・・(^^; 浜崎あゆみのシッポの秘密

風になれというタイトルの由来は脚注1をご覧ください

2002/3/17, 2003/5/19

はじめに

風になれ」は格調高くインテグラル・セオリーをベースに書いていますが、こちらはちょっとロマンチック?に外伝として書いてみました。インテグラル・セオリーをすこし離れています(話題としては触れてますけど)
ここで書いた内容は、SURREALDutyが出たときに私が感じたことそのままです。もっとも、最近に書き下ろしましたので、それ以後の話題も入っています。少し楽しく、ちょっぴりロマンを含めて展開して見ようと思います。内容的に、でも、いくらなんでもちょっと書きすぎというか、思いを飛躍させすぎという感もあります。
本編とは違う趣をお楽しみいただければと思います。
また、姉妹編として、風になれ! 外伝 ?K 妖精と・・・魔法と・・・現代が書きあがりました。そちらもお楽しみいただければ幸いです。

01. シッポ・・・

浜崎あゆみがその苦悩の真っ只中のとき、浜崎あゆみがライブで演奏する際などに、シッポのアクセサリーをいつも付けていました。かわいいので、それはそれで素敵でしたが(とか言いながら歌番組を見る習慣がない私は、偶然なにかで見ただけでしたけど・・・一応うちのDVDにはその時の放送、焼いてあるかな・・・)、ファッションリーダーとして見られていた点もあり、(いつものごとく)悪意から「流行らそうとしている」という陰口もありました。
そして、この話題が出ているとき、私は「まさかね・・・」と思い当たる点があったのです。
この時期の浜崎あゆみのアルバムジャッケットデザインにも大きな変化がありました。

SURREAL
2000年9月27日発売
Duty
2000年9月27日発売
浜崎あゆみの豹柄のイメージの始まりです

浜崎あゆみというと、豹柄というイメージが定着しているように思います。そして、その鮮烈なイメージは、豹柄に対するイメージそのものを変えてしまったようですね。昔は派手というイメージしかなかったのですが・・・。最近は、豹柄のデザインがいろいろとあります。
このころ発売された限定販売のtukaの携帯電話の売れ行きは、それは凄いものでした。なにしろ、買いに行ってもいつも売切れだからです。tukaとしても、限定台数、もうちょっと欲しかったことでしょう。これを表層的に捉えると、ファッションのブームを作ったことになるのでしょうが、本人にはそうした意識は明確にはないようです。関連商品が年商30億を超えているとしても・・・。

この背景は、本人の豹柄の採用や動物的表象の選択の目的が、別にあったからだと考えると自然なのです。それについては、もうちょっと先で述べましょう

このような表現は、これ以後も続きます。

ayu-mi-x III Mega Mix version2001年2月28日発売
浜崎あゆみと蝶の合成
浜崎あゆみとにゃんこの合成
浜崎あゆみは当初、虎と勘違いしていたそうです

率直なところ、ayu-mi-x III Acoustic Orchestra versionayu-mi-x III Mega Mix versionのデザインには驚きました。このようなデザイン的傾向の統一はアーティストの強い意向がないとできないものだからです。
この背景は明確だと思われました。
つまり、浜崎あゆみは動物的表象との合一を意識的に指向していたということです。
そうした意識の背景があるというと考えると、ライブでシッポをつけていることも、自然な発想として理解することが出来ます・・・。
このような風に理解したとき、私は「すごいな、この子」と感じてしまいました。
ライブでのしっぽの話題を聴いたときに、「まさかね・・・」とあり得ない事と思ったことが、実際に、「まさか」なのではないかと、これらayu-mi-xiiiの両方のジャケットを見たときに考えるようになりました。

02. シッポという「宣言」

シッポの話題を知ったとき「まさかね」と思ったことはなにか・・・。
それは「自身が動物的感覚/直感を維持する」という宣言を自身に課し、それをおしゃれな感覚でフッションに取り入れたのではないかということです。
これは、浜崎あゆみが直面していたケンタウロス的苦悩に対して人が取り得る、最善の選択肢の一つでもあります。しかし、そこまで直感で反応するものかなあとも思い、「まさか」と思ったのですが、それに続くアルバムのデザインを見て、やはりそうなのかも知れないと考え始め、「すごいな、この子」と感じたのです。きっと、多くの素晴らしい友人たち(年齢層は幅が広いと思います)と、本人の素直で敏感な直感が、そうした健全さの基本にあるのだろうと感じました。

本人がシッポの意味に言及しているのか、ちっとも知りません・・・
なにぶん、当時は私のアンテナの方向を浜崎あゆみに合わせていなかったので・・・言及していると、きっとぜんぜん違う話題かもしれませんね・・・(^^)・・・その場合は平にご容赦を・・・
余談ですが、私は浜崎あゆみより、どーんと年上なので、「すごいな、この子」ってなっちゃうわけですね。

この私が感じたことは、意外と当たっているのではないかとも勝手に思うのですが、ま、書きすぎというものでもあります。でタイトルには「これは書きすぎ」という書き込みをした次第です・・・(^^)
なぜ、「すごいな、この子」と感じたのか、その背景をご説明していきます。

03. 動物的表象のイメージは、一般的に共通

動物には、それぞれに共通的なイメージがあるものが、少なくはありません。
どの国/民族でも、ライオン、トラ、ヒョウ、ジャガーなどには共通的な印象が共有されています(もっともトカゲとかイヌなんかだと、地域によってはおいしそうとなってしまうのですけど、本当に食べちゃうので、食物なんですね・・・)。もちろん、その動物を知らないといけないのですが・・・。
そのイメージは改めてご説明するまでも無いことでしょう。あなたにも、共有されていると思います。ヒョウを見て「のんびりほのぼのとしているね」とは思わないはずですから・・・。
昔からそうした傾向があります。
左の写真は、マヤ/アステカ文明の戦士の絵です(絵そのものはアステカ戦士です。これらの文明が思想的共通点を持っていたことが明らかになっています)。といっても、昔の絵ではありませんが・・・これらの文明の資料の多くは失われています。

マヤ/アステカ文明では、昼の最強の動物はタカ、夜最強の動物はジャガーと考えられていました。
この点でも、次に紹介する
SURREALのアルバムイメージと同じですね…人間の表象は時代を超えて同一の傾向をもちます。
マヤ文明が受けた、人類史上有数の暴挙は、過去のキリスト教文明の狂気の成したことでもあります。あ、別にキリスト教のせいとはいいませんけど・・・。面白いのですが、ヨーロッパでは、この南米の文明の破壊者はすべてスペインが悪いのだという共通認識があるようです。日本人から見ると、ヨーロッパ人はみんな似たり寄ったりで、世界中でめちゃくちゃやっただろうが・・・と思うのですが・・・。アフリカの惨状にもうちょっとは責任感じたらと思うのは、私だけでしょうか・・・。ヨーロッパの主張によれば、植民地時代の植民地政策は当時としては非があるわけではなく、虐殺とはヒトラーによるユダヤ人の大虐殺からを言うのだそうです。で、これは正論でもあります・・・。でも、そんなヨーロッパでスペインはやっぱり悪者のイメージがあるんですね。
近年の研究では、マヤ文明の崩壊は、スペインの進出だけではなく、文明そのものが持っていた生態的調和が不完全であったためではないかという見解が示されているようです。スペインの人、良かったですね・・・。もっとも、自然のバランス崩壊の原因はスペイン人のためという意見もあるようですけど・・・。

この絵でかかれている内容、当時の戦士がジャガーの皮を着ているのって、先にご紹介した浜崎あゆみのSURREALDutyのイメージにそっくりですね。
表面的に考えると、ジャガーは強いから戦士がその皮を着ているのかなと思うのではないでしょうか。この文明、つまりマヤ/アステカ文明は、今の時代の感覚からすると野蛮という印象もありますし・・・。私も、若い時代はそう思っていたのですが、実はマヤ/アステカの戦士には、深い意味があった(らしい)のでした。その意味を説明することで、このような動物的表象と合一を図るというイメージがもつ意味とその先をご説明したいと思います。
しかし、その前に浜崎あゆみがどのようにヒョウのイメージを取り扱っていたのかを、もうちょっと見てみましょう。

04. 鋭く自身を観察し、誘惑する、ヒョウとしての浜崎あゆみ
2000年12月13日発売
DVD SURREAL

現代のアーティスト、特に音楽の場合は、パッケージメディアを駆使してくれるので、様々な表現により伝えてくれます。
そうした中で浜崎あゆみの場合は、感性を統べるタイプのアーティストであるおかげで、表現手段がより豊富でもあり、楽しませてくれます。
右の写真は、SURREALのために作成されたビデオクリップです。
このビデオクリップは、夢見る浜崎あゆみが入り込んだ不思議な世界で、浜崎あゆみが右のジャケットの出で立ちをした浜崎あゆみとジャングルの中で出会います。それは自身から出会ったのか、それとも見出されたのか・・・。
映像的にもロケしている場所が凄いので、お安いDVDですので、ぜひ見てみてください。
ここでキーワードとなるのは、浜崎あゆみにとってのヒョウと合一したイメージが、明確に観察者としての立場、そして自身を魅惑する力を持つ真実としてイメージされていることです。
そして、このような動物的イメージは、人の歴史の中に繰り返し登場している、共通的に登場するイメージでもあるのです。

05. 呪術の世界への旅立ち

このような表象がよく散見されるのが「神の概念」をまだ抱かなかった時代、つまり「呪術的概念」の世界です。この概念は、だれもが基本形を内在させていますが、多くの場合は他の概念により圧倒され、存在に気付くことが難しくなっているのが今の私たちでもあります。
そのような概念の表出を出来ることに、浜崎あゆみに対して「すごいな、この子」と感じた直接的な背景でした。
つまり、ピュアに思い感じたものを、さらっ、と率直に表現していること、そして、へんてこな社会的シナリオに毒されていない感性をこれらの表現から感じたのです。
さて、ここまでご説明したので、より深くこの辺の話題を・・・

06. 初めは、ちょっと怪しい資料から・・・

先に、マヤ/アステカ文明の戦士の絵をご紹介しました。すでに説明したように、南米の古代文明に関する資料のほとんどは、ヨーロッパ人の暴挙によりすべて失われてしまいました脚注2
そんな中で、1968年に驚異の書が出版されました。カリフォルニア大学ロスアンジェルス校で人類学を修業した若き人類学者? カルロス・カスタネダ(CarLos CastAneda)が記した「ドンファンの教え / Teachings of Don JuAn 」から始まる一連の著作です。カスタネダがドンファンという、南米系ヤキ・インディアンの呪術師に弟子入りして受けた教えと自身の体験を記したものです。この著作は10冊に上っています脚注3
カスタネダは当初において実在が疑われましたが、今では実在していることがわかっています。なにしろ、カスタネダとその前妻が訴訟しあっているのですから・・・あれ、決着したかな・・・(^^?
訴訟内容は、現在のカスタネダが行っている活動はドンファンの教えに従うものではないというのです・・・。そうした中で逆に明らかになったことがあります。つまり、全てが偽作であったとしても、彼の初期の1973年までの著作では、ドンファンに相当する人物がいたのか、または、メキシコの呪術師の物語を集めた文化人類学者から資料を発掘して著作をしていたのです。ドンファンが実在した人物脚注4か、資料そのものなのかの真偽はわかりませんが、いずれにしても、その著作は南米に古代から伝わる(偉大な?)知識に端を発している可能性があります。実際に、カスタネダの著作を読んでいると、ドンファンの言葉を全く理解できず、繰り返し説明を受ける著者の姿を目の当たりにします。そして、説得力があります。私も読んだときに「あ、これは・・・」と思いました。で、胡散臭いと思いますが、そのままご紹介しちゃいます。
ただ、誤解を招かないためにお断りしますが、ケン・ウィルバーが語るインテグラル・セオリーの世界ではこのような資料はすべて排斥されています、つまり本論で採用しているインテグラル・セオリーの世界とはなんの関係も無いことにご注意ください。ケン・ウィルバー自身も、これらの資料の信頼性の無さについて言及していたように思います。

講談社 0098-132837-2253(0) 1600円
未知の次元
カルロス・カスタネダ著
青木保監修/名谷一郎訳

といいながら、最近日本の人が書いたインテグラル・セオリーの本を読んでいたら(実は、日本の人が書いた本読んだことありませんでした・・・(^^;・・・カスタネダについて、インテグラル・セオリーの初期の話題で触れているんですね・・・まずいんじゃないかな・・・かなり危なっかしいなと思ってしまいました。

しかし、私としては、ちょっと面白いかなという気持ちがあります。そして、後述しますが、西ヨーロッパの古代であるケルト民族の思想的背景であるドルイド教団(インド・ヨーロッパ語族共通の思想的源流に近い可能性もあります)、そして、精神的背景の源流が縄文時代にある可能性のある日本には、共通的な感覚があります。つまり呪術的な文化的資質という類似性があるとも思うのです。

カスタネダがその知識を食い扶持のネタにしたのは、ま、へんてこな宗教団体みたいなもので、よくあることです。真理とは、だれが語っても真理なので・・・説得力がそのままあるんですね。しかし、人の生き方に関する話題を食い扶持にすることって、今の時代からすると不思議です。
だって・・・何のための生き方なのか・・・実践しなきゃね・・・(^^)v

カスタネダの著作の内容を、偶然に残っていた私の蔵書からちょっとご紹介しましょう。

この蔵書、カスタネダがらみで偶然1冊だけ残っていました。(気が向くと一気に読む性格なもので・・・)4〜5冊くらい読んだのですが、もう二度と読まないと思い捨てちゃったもので・・・。

この本の原著は1974年に出版されています。ま、ちゃんとした資料が背景にあって欲しいですね・・・本書くのって結構時間がかかるので、カスタネダのちゃんとした資料に基づいた最後の本であってほしいと思います。

07. トナール、動物として現れる表象

この本では、カスタネダの書いた本のシリーズの中で重要な概念、トナールナワールが登場します。
この話題が、直接に浜崎あゆみのしっぽと話題が通じていきます。
すいませんが、引用なので書き換えることが出来きません。ちょっと難解なのですが、さらっとお読みください。
トナールとはなんなのか、本の内容をご紹介しながらご説明します。

P-169より

トナールナワールについて話すことにしよう」と彼は言って、きっとわたしを見すえた。
 わたしたちが知り合ってから、彼がその二つの言葉を口にしたのは、これがはじめてだった。わたしはメキシコ中部の文化に関する人類学の文献によって、それらの言葉を漠然と知ってはいた。「トナール」がある種の守護霊であり、それはふつう動物で、人は生まれたときに獲得したその守護霊と生涯にわたって密接なつながりをもちつづけるとされていること、また「ナワール」は、呪術師が変身すると言われている動物、あるいはそのような変身をとげる呪術師にたいして用いられる呼び名であった。

P-170より、ちょっと文章を飛ばしました

わたしは、人類学者がその二つの概念についてどう考えているかを話した。彼は口をはさまず、わたしにしゃべらせた。
「とにかく、それについてお前が知っているつもりでいることは、すべてまったくのナンセンスだ」と、彼は言った。「わしがこう言うのは、これからトナールナワールについて何を語るにせよ、それはお前がこれまでまったく聞かされていなかったことだという事実にもとづいている。お前がそれについて無知だということは、誰にでもわかる。・・・・」

P-171より、またまた、ちょっと文章を飛ばしました

「言わば、トナールナワールは知識の人に開かれた特別な領域なのだ。お前の場合、これは、わしがいままでお前に教えてきたことすべてのものをおおっている蓋にあたる。だから、わしはそれについて話すのをいままで控えてきたのだ」
トナールは人を守護する動物ではない。むしろ、それは動物としてあらわすことのできる守護者だと言ってもよい。だが、それが重要なポイントではないのだ」
彼は笑って、わたしにウインクした。
「お前の言葉をつかうとしよう」と彼は言った。「トナールは社会的人格だ」
わたしが面喰っているのを見てとったからだろう、彼は笑った。
トナールは、まさしく、保護する者であり、守護者だ。たいていの場合は看視人に変わってしまう守護者なのだ

P-174より、またまた、ちょっと文章を飛ばしました

トナールは、われわれの知っているすべてのことだ」と、彼はゆっくりとくり返した。「しかもそこには人間としてのわれわれだけではなく、われわれの世界のすべてが含まれている。トナールは、われわれの目に入るすべてのものだと言うことができる」
「われわれは世界が誕生した瞬間からそれを育みはじめる。はじめて空気を吸い込んだ瞬間に、われわれはトナールにも力を吹き込む。・・・」

如何でしょうか?
トナールの外観、それは動物としてあらわすことができる守護者、そして看視者・・・
浜崎あゆみがDVD SURREALの映像の中で示している、観察者としての浜崎あゆみの観点の話題に、話題が合ってきましたでしょ・・・外観まで・・・(^^)・・・そしてこの話題は、浜崎あゆみのシッポの話題にも通じます。
そう、ドン・ファン(カスタネダの師である呪術師)式に言い換えると、浜崎あゆみは、シッポによりトナールとしての自身を表現していたのです・・・。
この時代の浜崎あゆみが自身を動物的表象に近づくファッションを意図的に選んだこと、つまり、自身に対してトナールとしての表現を行ったことに、私は「すごいな、この子」と感じたのです。自身に対する看視者という姿勢を、宣言しているように思えたからです。それは透明な直感の成せることです。

この話題、ご紹介した本を見ていただくと、トナールとは、分化されていない、ホロンと認識の各段階の話題に類似していることがわかります。このカスタネダの本が出版されたとき、まだインテグラル・セオリーは登場するかしないかの時です。カスタネダが胡散臭い人物でなければ、もっと価値ある話題となるのですが・・・。

08. ナワール、人の認識の外側

では、ナワールとはなんなのでしょうか?

P-177より

トナールが自分自身と世界について知っているすべてのことだとしたら、ナワールとは何なのだろうか?」
ナワールは、わしらのうちにあって、わしらがまったく関与しない部分だ」
「何だって?」
ナワールは、わしらの言葉で言いあらわせない部分だ。それにたいしては、言葉も名前も感情も知識もない」

P-198より、ちょっと文章を飛ばしました

「お前は何も言っていないのと同じだ。ナワールは経験でも直感でも意識でもない、そんな言葉やお前が言わんとする他のすべてのことは、トナールの島の一部に過ぎない。それに反して、ナワールは効果だけだ。トナールは誕生とともにはじまり、死で終わる。だが、ナワールは決して終わらない。ナワールに限界はないのだ。・・・」

p227より、また、ちょっと文章を飛ばしました

「・・・トナールはいかなる犠牲をはらっても守らなければならない。王冠はトナールから取り去られなければならぬが、トナールは観察者として守らなければならないのだ。」
トナールに対する脅迫は、つねにトナールの死をもたらす。そして、トナールが死ねば、その人も死ぬ。その固有の弱さゆえに、トナールは抹殺されやすく、そこでバランスを保つ技術のひとつとして、戦士はトナールを支えるためにナワールを出現させる。それを技術というのは、呪術師はトナールをあと押しすることによってのみ、ナワールがあらわれうるということを知っているからだ。わしの言わんとすることがわかるか?その後押しが個人的な力と呼ばれるものなのだ」

ナワールとは、人が認識できないすべてを語る言葉です。人が合一することが出来る、しかしすべてを理解することは出来ない全体であり、ナワールの意味を理解できるということは、その人はすでにトナールを超えて理解できるということを示しています。
ここまでくると、ぜんぜん言葉も説明も違いますが、「インテグラル・セオリーなどが説明する世界に対応するものかもしれないなー」と感じられるのではないでしょうか・・・。これがインテグラル・セオリーを行う人が、話題として胡散臭いカスタネダに言及している理由なのでしょう。

09. 呪術的社会の発想の深さ

このような呪術的社会における認識の話題について、ケン・ウィルバーもその有意性の可能性については触れていますが、なにぶん信頼できる資料が少ない時代の話題ですので、取り扱うことは出来ないというのが彼の考えですし、まったく正しい判断であるという実情があります。
ちょっと専門的な用語になりますが、大規模な国家が形成されるようになる時代になると、人の基本的な考え方は「神話的」な考え方になっていたと考えられています。ここでご紹介したような、大国家成立以前に属するような人の基本的な考え方を、呪術的と呼びます。呪術的社会は、呪術師が社会的にも目立つ傾向があるからですし、その発想そのものが人が他を思い通りにするという観念が強く、文字通り呪術的であるからです。
実際のところ、呪術的社会では、文字がまだ発明されていないため、その思想をそのままに記した資料が得られず、解明することは困難です。

まったく異なる文化圏の私たちが、近代に残っていた呪術的傾向の強い部族について博物的に記した資料はいくらかあるのですが、思想を知るためには主観的記述が必要であるため、その内容の深さに問題が少なからずあります。そうした資料として伝聞をまとめ上げたフレーザーの金枝篇とか、有名なものがいろいろとありますが、ご説明した理由から、今回はそうしたものは使用しないで話題を進めましょう。

そうした中で、アメリカでは、カスタネダの資料や、あと、今ではネイティブ・アメリカンの思想というものがいろいろと紹介されたりしています。アメリカ人独特の歴史的空虚さの感覚から余計加速しているのかもしれませんけど・・・・(こういう、うがった見方は日本人やヨーロッパ人が常にする癖があるような・・・)。私の感覚では、「どちらも読み物としては面白いよね」というものなのですが、だからといって、それほど的外れな内容ではないよなとも思います。ただ、呪術的な社会を代表する資料かな?とも思うわけです。それでも紹介したのは、今式の言葉でかかれているので、エントリーの話題には面白いと思った次第です。
資料がないといいながらも、そうしたことを想像させる話題も無いわけではありません。「風になれ 外伝 ?J」としてちょっと暴走気味に書いていますので、ここは一気にお話を進めてみようと思います。
呪術的社会は文章を残していませんが、歴史的事実は残しているのですから、想像をたくましくして推論してみることができます。
成文化されたものではありませんが、呪術的な社会の例として、歴史ある古の時代の2つを、つまりケルト民族と日本の縄文時代を述べ、今にも連なるその精神的背景をかいま見てみましょう。

10. The Book of Kells
トリニティ大学 Old Library

ケルト民族をご存知でしょうか?
かつて西ヨーロッパに展開した民族で、その文化は今のフランス、イギリス、アイルランドのあたりに展開していました。ヨーロッパの先住民族です。最盛期にはローマを占領した時代もありました(紀元前400年くらいです)。文字を否定する文化(後述するドルイド教団は、教義を文字で記述することを禁止していました)であったため、その思想を記したものなく、その精髄は今では失われています。
失われた遺産の名残として、600AD〜800ADの間にアイルランド アイオナの修道院で書かれたと考えられている、皮に彩色を施している華麗な書籍に世界的に有名な「The Book of Kells(ザ・ブック・オブ・ケルツ)」があります。アイルランド ダブリントリニティー大学に保管されており、Old Libraryで公開しています。

といっても、当然ですが、自由に手に取れるようになっているわけではありませんけど・・・(^^;
ガラスのショーケースに入っていました。

この本は西ヨーロッパにおける文化的遺産のひとつとして考えられています。

The Book of Kellsの19verso(19枚目裏、つまり見開き左側)
極彩色に彩られた内容に、動物の表象が交えて書かれているのがわかりますでしょうか?
The Book of Kellsの資料は、アイルランド トリニティ大学が作成したCD-ROMやDVDをインターネットで買うことも出来ます。www.boOKofkells.ie

The Book of Kellsは新約聖書で、4つの福音書をラテン語(つまりローマ帝国の公用語)で書いたものです。各ページにラテン語による福音と、ラテン語を読むことが出来ないケルト人のために書き加えられた様々な動物や図形、人などの絵による補足が書かれています。当時はラテン語を理解できるのはアイルランドでは極めてエリートでしたので、絵による説明を試みていると考えれています。ラテン語は現代でも読めるのですが、この本の絵による説明の意味は現代において、もはや理解できません。絵で使用されている様々な表象についての意味の知識が失われてしまったからです。しかし、これらの絵の意味は、当時の人々には自明であったのであると考えられています(そういう風にトリニティー大学の研究者の説明付きで展示してありました)
このことは、当時のケルト人が聖書の内容を記述するに足るだけの様々な表象的概念を、まったく異なる形ですが、すでに持っていたことを示しています。ケルト民族は東方から移住しBC800頃から鉄器文明を西ヨーロッパに展開しました。かつてはいろいろと別な呼ばれ方もしています。ローマ帝国からはガリア人と呼ばれていました。そう、カエサルのガリア戦記が記している、ローマの立場から見た蛮族が、ガリア人つまりケルト人なのです。
ケルト/ガリア人は、文字を持たない時期が長く、当時の彼らについて記している最古の書籍のひとつが、カエサルのガリア戦記です。ローマ人の視点から弁舌された、征服の成功報告書ですが読み物として素晴らしいのものでもあり、今でもラテン語の古典として愛読されています。そして、一方的な資料でもあります。

イギリスの文明の始まりは、カエサルのガリア戦記に記されているブリンタニアへの進行であったとチャーチルが語っています・・・・おいおいと思うのは日本人の特権ですかね・・・

11. すべての部族を結ぶドルイド教団

カエサルが進攻したした当時のケルト人の社会は、今のドイツ東側から、フランス全土、イギリス,アイルランド(ローマからはブリンタニアとしか認識していませんでした)に及んでおり、この地域がケルト文化圏でした。ケルト民族は多くの部族から構成されており、国家の概念や、民族の概念が希薄であったと考えられています。それは、古代では、一般的な傾向でした。

国家、民族という概念は、そんなに古いものではありませんので・・・
人の意識の層と同じように、前個的な概念の世界では、国家、民族という概念は生まれてきません。もっとも、超個的な概念の世界では、それらは超越されるのでしょうが・・・。

ケルト人の社会構造は、司祭階級、騎士階級、平民、奴隷とから構成されていました。

この階層が、インドのカースト制に似ているために、インド・ヨーロッパ語族脚注5がかつてあった地域の文化が反映していると考える人たちがいます。ですから、ケルト文化に色濃くインド・ヨーロッパ語族が持っていた文化が反映しているのではないかと考えているようです。
余談ですが、カエサルは平民と奴隷はそう差がないと述べています・・・。

ドルイド司祭の想像図
ケルト人のガリア戦記
原修二著/新紀元社
ISBN4-915146-40-5 71Pより

司祭階級は、ドルイド司祭(druidh)、フェーリ(filidh/語り部)、吟遊詩人(baird)から構成されていました。カエサルのガリア戦記によると、ドルイド司祭はカルヌテース族の領土ですべての部族が集い、様々な会議をしていたようです。そして、ケルト社会においてドルイド司祭は絶対的な権限を持っていました。

・・・僧侶は神聖な仕事をして公私の犠牲を行い、宗教を説明する。教育を受けようと多数の青年が集まってきていて、尊敬されている。公私のあらゆる論争を裁決し、犯罪があったり、殺人が行われたり、相続や国境についての争いが起きたりすると、同様に裁決して賠償や罰金を決める。個人でも部族でもその裁決に従わないと犠牲にあずからせない。この罰は最も重い。犠牲にあずかれないものは不敬の汚れたものと見なされ、皆がこれから遠ざかり、これに触れて汚れないために近づいたり話したりしなくなり、たとえ求めても裁判は受けられず、公職につくこともできない。・・・

ガリア戦記/カエサル著/近山金次訳/岩波文庫 青407-1 197ページより

こうしたことから、ケルト人の社会は、呪術的な宗教による共通的な文化的基盤の上に成立していたことがわかります。
ただ、私たちが現代から想像する宗教的な世界と全く異なる実情があります。
それは、すべての部族がまったく同じ神を信じていたわけではないという事実です。ケルト社会における宗教は、人格神による多神教的形態をとっていました。カエサルはケルトの神々をローマの神々と対応付けて説明しています。ただ、実際にはそれほど簡単に対応できるものではなかったようです。ケルトの神々はローマの神々のような機能的な部門を表す、共通的な神の概念ではなく、部族ごとに様々な神々から構成されていました。なにしろ、ケルト語において部族を意味する派生語であるテウターが部族の神(テウターヌス)を意味していたくらいで、部族ごとに異なる神々を持っていたのです。それは呪術的世界観を多く残しているもので、一神教的、つまり神話的世界観の直前の段階です。

ケン・ウィルバーは、古の時代について荒っぽく呪術的社会→神話的社会と区分していますが(万物の歴史進化の構造)、おそらく、正確に分類しようとすると、呪術的→部族神的→多神教的→一神教的といった流れがあるのではないかと思います。このような流れは、概念が一般化する過程にそのまま対応しますので、これは自然な発想でもあるといえるでしょう。ただ、これは必然的な経路という話題ではないことに注意してください。

司祭階級は、すべての部族から独立した、ドルイド教団と呼ばれるケルト文明下で1つに結ばれた組織を築いていました。ドルイド教団は、全部族を横断的に結んでいたと考えられています。

遺跡から作られたドルイド司祭の祭祀の想像図
ケルト人のガリア戦記 原修二著/新紀元社
SBN4-915146-40-5 71Pより

・・・一年間のある時期にガリアの中心の地と思われているカルヌーテース族の領地の神聖な場所に会合する。争いのあるものは凡て各地からここに集まって僧侶の裁決を待つ。・・・

ガリア戦記/カエサル著/近山金次訳/岩波文庫 青407-1 197ページより

紀元前58年のハエドゥイー族のドゥムノリクス (反ローマのリーダー。紀元前54年にカエサルの部下により暗殺されるまで、カエサルは自分の下につれて回っていました。その間、彼はガリア諸部族とドルイド教団を経由して連絡を取り合っていたと考えられています) 紀元前52年のヴェルチンジェトリックス (ガリア人の英雄、対ローマ総決起の鎮圧後ローマに連れて行かれ、処刑されました。カエサルは部下にしようとしたのではないかといわれていますが、カエサルにも危険な英雄であったようです。ガリア人を先祖とするフランスでは民族的英雄として考えられています) による全ガリア民族による対ローマ総決起の裏には、ドルイド教団の活躍があったのではないかとも考えられています。
その理由は、ローマの領土拡大の中で、ローマ人の施政の基本に、宗教の自由がありましたが、ガリア制圧後に例外として、ドルイド教団による祭祀がカエサルによって禁止されたからです。当時のローマ、そしてその中でもとりわけてローマ的で明晰で開明的なカエサルがこのようなことを行うことは極めて異例なことでした。

12. 文字の使用を教義の説明に禁じていたドルイド教団

ケルト文化では文字はないといわれていますが、文字を使用することはありました。

ヘルウェティー族の陣地からギリシア字(一)で書かれた表が見つけられカエサルに渡されたが・・・

(一)ギリシア字であり、ギリシア語ではない。Galliは文字をもたず、ただDruid僧侶がギリシア字を借用したもので、一般の人はこれを知らなかったものらしい。

ガリア戦記/カエサル著/近山金次訳/岩波文庫 青407-1 49ページより

ドルイド教団では、教義を文字で表現することはよくないと考えていました。

・・・そこで沢山の詩を暗記するといわれてる。こうした或ものはその教育に二十年もとどまる。その教えを文字に書くのはよくないと考えているが、他の事柄は公私の記録でギリシア字を使ってる。私には二つの理由からそうなったものと思われる。その教えが民衆の中に持ち込まれる喜ばないのと、学ぶものが文字に頼って記憶力の養成を怠らないようにしたのと、二つである・・・

ガリア戦記/カエサル著/近山金次訳/岩波文庫 青407-1 198ページより

このように、カエサルらしい聡明な分析では、教義を文字で述べない2つの理由が述べられていますが、私にはさらに別な理由、つまり教義そのものが文字による具象化を禁じていたのではないかと思う点があります。
その理由は、ケルトの神々の多様さです。
多様であるにもかかわらず同一の教団でありえたことの背景に、形としての神の背後に、共通的な認識があったと考えることが自然に思えるのです。つまり、神という概念すらも一定の表象として理解していたと感じられるのです。インドの古代哲学であるウパニシャット哲学でも「真実は具体的に語ることが出来ない」と考えていました。インド・ヨーロッパ語族脚注5として元文化が同一であるとすると、文字として現すことにより、そうした思想を正しく伝えることが出来なくなると考えることに、それほど無理はないのではないでしょうか。

仏教の世界でも、似た話題が多くあります。たとえば密教です。空海が最澄からの依頼であった「理趣釈経」の貸し出しを断った(813年の話題)理由は、この経典は密教の意味を知らない者には適切ではない、つまり文献で理解すべきものではないということでした。余談ですが、「理趣釈経」は性の意味とそれにより悟りに至るための内容が記されているそうですが(インド古代思想に端があるのかもしれませんね)、私はまだ「理趣釈経」を読んでいないので、内容についてはただの風聞です。

すでにThe Book of Kellsの説明で述べたように、具体的な言葉による説明が無くても対応する概念を表象として多く持っていたことから考えると、ドルイド教団で考える教義の本質は、表象としての神ではなく、その背景である神々の本質にあったと考えてもいいのではないでしょうか?そうでなければ、異なる神々をもつ様々な部族間で、ドルイド教団が成立も機能も、し得ないからです。

仏教においても、様々な仏陀が登場しますが、それらは仏性の側面を代表させた擬人的表現であると考えた方が良い点があり、同様な状況があります。そして、そうした内容が多く仏典として文字により記された結果、現代でも読める代わりに、難解になったという傾向が否めないかもしれません。

このように説明をしてくると、残されていないドルイド教団の教義とは、先にご説明したナワールの概念に近いものかもしれないなあ・・・と思われませんか?
古代の呪術的文化圏であっても、かなりの深さを持っており、異なる文化圏であっても同一の世界観に至っていたのではないかと感じてしまいます。

13. 言葉はそうあまりにも、ときに無力だから

そして、このような状況は、現代においてもそう変わりません。
インテグラル・セオリーにおいても、深さを持った心のあり方の名称を用意しているだけであり、語る言葉は様々、言い換えると特定の説明はないのとそうは変わらないからです。概念を受け入れられるだけ世界観が深くなることが大切なのであり、言葉そのものは実は重要ではありません。
で、こんな歌も思い出しちゃうますでしょ・・・浜崎あゆみを知っている人なら・・・

・・・・
今はこれ以上話すのはやめとくよ
言葉はそうあまりにも
ときに無力だから

浜崎あゆみ no more wordsアルバム I am...より

ここまで書いてて、やっとつながってきたかな・・・(^^;

14. ドルイド、それは、森の英知 ・・・ そして日本へ

ところで、ドルイド(druid)とは、どのような意味なのでしょうか・・・
dr(ドル)とは、樫の木、uid(ウイド)とは知識を意味しているそうです。樫の木はケルトの世界では神聖な木として考えられていたものです。

後述する縄文時代のとき、日本が豊かな森林に覆われていたように、ヨーロッパでは樫の木/オークに覆われていたと考えられています。以下に、そうした文献をご紹介します。
・・・ヨーロッパの古代アーリア人はオークの森で暮らし、オークの枯れ枝を使って火を起こし、オーク材で村や道路やカヌーをつくり、オークの実を豚の飼料にし、この実を素朴な食事の一品にしていたと結論してもよいだろう。これほど多くの恵みをオークの木から受けていたとすれば、信仰でもこの木が重要な役割を果たし、神格を与えられたのも不思議ではない・・・

図説 金枝篇 /サー・ジェームズ・ジョージ・フレイザー著/メアリー・ダクラス監修/サビーヌ・マコーマック編集/内田昭一郎・吉岡晶子訳/東京書籍 P-117より

ここで説明されるように、オーク/樫の木とは、森と同義語に近い言葉でもあります。 (2002/3/20)

直訳すれば「神聖な樫の木の知識」、意訳すれば「森の英知」という感じの意味でしょうか?
ドルイド司祭とは、森の賢者であったのです・・・・
この時代、人類はまだ自然の営みにあわせて生活するしか術が無い時代、人は森と密接に生活していました。
そして・・・それと規模は違いますが、同様な時代が日本にもありました。縄文時代です・・・。

ケルト人の都市は、カエサルの時代で大きいものでは2万人規模となっていたと推定されています。そして、ガリア/ケルトの英雄ヴェルチンジェトリックスが率いたアレシアの戦いで、ガリア軍勢は29万9千人でした。日本の縄文時代で最も人口が多いときで26万人くらいと推定されていますので(もっとも、ヴェルチンジェトリックスの時代は日本では弥生時代ですので、比較できる時代ではないのですが・・・)、規模において違いがありますけど・・・。

日本の縄文時代は、13000年前に始っていました。そして、アジアの様々な地域との交流を重ね独特な文化を発達させたのでした。規模において、他の著名な文明とは大きな違いがありますが、その深さにおいて、独特な位置をしめています。

15. 戦争を知らなかった森の民、縄文時代

日本の縄文時代は、紀元前11000〜紀元前300年くらいの間を示しているようですが、その期間については、まだいろいろと議論があるようです。それに続く弥生時代は、紀元前300年〜紀元後300年くらいを示しています。実際には、縄文文化と弥生文化は共存していたようなので、こうした時代区分にも、諸説あるようですが・・・。
紀元前11000年というと、グレートジャーニーといわれる、人類がアフリカからアジアを回り、凍結しているベーリング海峡を渡り、北アメリカから南アメリカに到達した時代でもあります。つまり、その直後から紀元前300年くらいまでを、日本では縄文時代とよんでいるわけです。

余談ですが、環太平洋で縄文式土器が発見されたりしていますし、縄文人の血が強いアイヌ民族と、マヤ民族にはDNA系統が近いという報告もあります。
以降でもちょっと述べていますが、弥生時代の開始した時期は紀元前800〜1000年と考えられる可能性が、土器に付着している炭から明らかになったと報道しておりました。

近年の考古学研究の結果、日本の縄文時代について様々なことがわかってきました。みなさんも、三内丸山遺跡で発見された紀元前3500年頃に作られた縄文時代の大きな村跡や、その周辺に作られたであろう人工的なクリの森などの話を聞かれたことがあると思います。そこで使用されていた木工技術は、現代にも通じるものがあり、日本の木工技術のルーツの深さにも驚くものがありました。

このような調査の中で、かつて常識と思われていたことの多くが、事実ではなかったことが明らかになってきました。
私が学校で学んだ内容では、縄文時代は狩猟生活、弥生時代では、水稲による農耕生活、したがって、縄文時代は血なまぐさく、弥生時代は平和、という感じでした。
しかし、現実は全く逆で、日本列島で戦争らしい戦争が始ったのは、弥生時代、紀元前300年くらいからであることがわかってきています。

私の年になると、学校ってなにを教えているんだろうと思うことが、多くあります。
歴史どころか自然科学ですら、別に確定的なものではないんですよね。人の知恵ってのは、そういうものなんでしょうね・・・。
2003/5/19のNHKの報道によると、弥生時代の始まりは紀元前800年〜1000年ではないかと、土器に付着している炭の分析からわかってきたとのことです。

弥生時代は、中国などから戦乱を避けて日本にたどり着いた人々の知識がベースになり、そうした文化が縄文文化と融合していく過程の時代でもあります。このときに、水稲の技術と、国や戦争の概念が日本にもたらされたようです。弥生時代になるまで、日本には守りを考えた環濠集落は存在していませんでした。

余談ですが、弥生時代の環濠集落を囲む濠からは屎尿が検出されているので、結構汚い濠だったみたいですね。集落の周りを肥溜めで囲んでいるって感じでしょうか・・・縄文集落のほうがなんだか清潔そう・・・
ちょっと昔は騎馬民族が日本を征服とか、いろんな話題もあったのですが・・・なんのことはない、小説みたいなもんですね・・・

日本の遺跡で、明らかな戦争の結果といえるものは、紀元前300年前くらいから、弥生時代で、それもその発祥の地である九州からはじまっています。戦乱の地域で生まれ育った人々は、戦争と闘争を当然のものとしていたのでしょう。

16. 「和」を知っていた?縄文の民

NHKスペシャルは、日本の放送局の番組の中では、実によく作られていると感心する番組が多いのですが、その中でも最近感心した番組が2001年に放送された「日本人はるかな旅」でした。
一番感心した点の一つが、考古学者たちの観点を超えて縄文文化と弥生文化を捉えて、その観点に基づいて番組を構成したことです。
具体的には、戦いを基本としていた弥生文化と、それまでの平和な縄文文化が融和していったという観点に立っていたことです。
その具体的な説明として、弥生文化が森林部分には進出できなかったこと、そして、やがて縄文系の人たちが、弥生系の文化の中に進出していったこと、そして、小田原で発見された紀元前200年前の中里遺跡の誕生を紹介しました。この遺跡は、縄文文化と弥生文化が並存し、武器や集落を防衛する濠は、もはやありません。縄文と弥生の文化の統合がはじまったことを紹介したのです。
つまり、弥生系の文化と縄文系の文化の、対立と圧倒ではない別な解決策、融和とそれまでの超越があったという観点に立っていました。

率直なところ、このような観点は考古学者たちは支持していないと思います。考古学者からの特に明確な説明は無いように思いますが、支持しない理由のひとつは、縄文文化は戦争を成立させるための集団的な概念がまだ発達していなかったというのがあるようです。これは、順当ですが、もしもそうであるとすると、それはかなり稚拙な概念でもあると思います。
ちょっと感じるのですが、考古学というのは、推定を行う科学であるため、推定にその人たちの世界観がそのまま出ているのかも知れないと思うものがあります。言い換えると、考古学者たちの人間観や社会観が表出していると感じるのですが、その内容にちょっと発想の幼さを感じるのです。考古学者たちの考える世界観はかなり単純で、人の社会の進歩がたった1つの道を辿るという前提に立っているように思うのです。そのため、集団的な概念の未発達だけにすべての結論を求めてしまうのだと思います。この番組を見たときに、私はNHKの番組制作者たちの感覚のほうが正しいのではないかと感じるものがありました。

そう感じる理由は、日本の成文化された歴史の中に現れている、いくつかの謎があるからです。その謎とは、日本の古代において、仏教思想が伝えるような非二元的観念の芽生えが、すでにあったのではないかと思わせるものが、あるからです。その源泉が、縄文時代に遡るとしてら、なるほどと思うものがあるのです。
その謎のひとつは、日本初の憲法であった十七条憲法です。
そして、もうひとつの謎は、実践を重んじる密教が日本に伝来した際の、空海の話題です。

17. 聖徳太子 十七条憲法の謎

日本人なら義務教育のおかげでだれでも学ぶと思うのですが、日本初の憲法として聖徳太子が定めた十七条憲法というのがあります。

十七条憲法は604年に成立したと言われています

私が子供の頃、学校では仏教に基づいて作られたと教わりましたし、いろいろな人が書いたものを読んでも、仏教と深い関係があるように説明しています。でも、ちょっと不思議な点があります。十七条のはじめが、「和をもって貴しとす」とはじまるからです。

一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。

聖徳太子 十七条憲法より

現在知られている日本書紀の内容は、書き写されたものであるため、原文が、漢文であったか、かな文であったか、まだ確定はしていないみたいですね。

なぜ、不思議なのか・・・それは、簡単です・・・
仏教には「和」という考え方も、用語もないからです・・・

和に相当する考え方を、あらゆるものの本質は仏性であるという原始仏教の基本から演繹することは出来るのですが・・・

それなのに、十七条憲法が仏教思想が前提だと説明するのは、無神経を超えて、はちゃめちゃでもあります・・・往々にして、文献中心の研究者は自分が理解できないものを見ると、自分が一番わからないもの、たとえば宗教のようなものに理由をかつけることがあるのですが・・・。
でも、自然に考えてみてください。日本人ならあたりまえに思いますでしょ・・・初めにこの文面があることが・・・それが、この不思議を気づかなくさせているのでしょうか・・・。

この話題は、私の先輩でお坊さんになった方とも話し合ったことがあります。
「不思議だよねー、学校で教えてる内容は、ただの嘘じゃん」と盛り上がってしまいました。

余談ですが、仏教(仏法僧)を大切にしなさいというのは、二番目の条文となっています。

二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。

聖徳太子 十七条憲法より

ここで三寶(仏法僧)を敬う理由として、凡ての国で死老病死に答えるのが究極の宗教であり、将来にわたって仏法を尊ばないものはいない、という感じで仏教を述べています。率直なところ、法律というよりも、指針ですが、憲法ですからね・・・

古代から今まで、番号付けにより序列をつけるとき、最も大切に考えるものを先頭に配置することは、自然です。そう考えると、十七条憲法で最も大切なものは、「和」であり、仏教はそれに続くものです。

世の中一般に言われる時代背景の話題は、この際飛ばしてしまいますね。
ちょっと次元が違う話題なので・・・。

聖徳太子の時代、大化の改新とか激しい抗争があった時代ですが、こうした抗争が激しく行われるようになったのは、すでにご説明したように弥生時代以降であることがわかってきています。

18. 「和」という概念の系譜

「和」という概念は、日本人にはけっこう自然な感覚があるのですが、その概念の系譜には、当たり前に思いすぎるためか誤解が多いと思います。そうした誤解には、二種類があると思います。
ひとつは、抗争に飽いてそうした概念が得られることは自然であるという考え方、もうひとつは、精神的に成熟していないからそうした概念が生まれるという考え方でしょう。

18.1 抗争に飽いて人は「和」を知るのか?

世界の中で、人の戦いが途絶えたことは無いといわれています。
人の理性を信じる観点では、人は戦いの中で平和の大切さを学び得ると考えるものがあります。結構昔の考え方ですが・・・。残念ですが、戦いに飽くことはあっても、平和を求めることは、科学的な発想を行う理性の力だけではあり得ません。理性は、合理性を求めることは出来ても、なにが人にとって大切かを判断することが出来ないからです。平和が合理的な帰結になるための条件は、極めて難しく、現実には成立しないでしょう。例えば、北アイルランドやパレスチナの抗争に、理性的な考え方はどのような答えをもたらすことができるのか考えてみれば、自明なことです。

この辺の話題は、こちらをご覧ください。
日本は、第二次世界大戦後、戦争に参加しないという奇跡的な状況を続けていますので、そうした国に暮らす私たちは平和こそが世界の実相かと思ってしまいますが、それは勘違いで、世界の抗争は複雑さを増しています。理性は、戦いから平和を学ぶことは無く、戦いを新たに学ぶだけに過ぎません。それは、今も昔も変わりはありません。戦いの原因には、いろいろなものがありますが、それらの原因を超越するだけの意識の育成が無くては、戦いは避けられないのです。それは外面的な側面だけを捉える科学的な発想を行う理性だけでは、達成できません。

戦争をすれば、人が死に怪我もする。だから戦争はいけないのだ・・・なんて説明して、なるほどと思う人とか、本心からそう思っている人がいたら、ちょっと怖い・・・(^^;

対立を超えることを要求する「和」という概念は、それを派生させるだけの概念が人の中に生まれていないと形にはできません。つまり、意味を理解する心のあり方が必要です。世界史が示すように、数十年と戦いを行っても、それから学んで「和」を思いつくことなどはありません。
人は自然に平和を求めるのではなく、平和を求める強さを学んで、戦いを否定する力を自らものとして、平和を模索するのですから・・・。

太古の日本において、弥生時代と抗争の歴史は紀元前500〜300年くらいに始っていますそして、当時の日本?は短期間で中央集権的国家を成立させるという驚くべきことをやってのけているわけですが、その過程で、すでに紹介した中里遺跡のような抗争の超越を具体化したようなことが行われています。
このような過程を見ると、当時の日本人は国家という概念を受け入れる素地をすでに持っており、しかも、闘争による勝者の力による支配だけではない方法でこの国を構成できたのではないかと、想像させます。
そして、初期の朝廷の遺跡からは、縄文、弥生の日本中の土器の様式が確認されてもいます。抗争だけではない、それを超越した連携による国家形成という力も、当時あったと考えることは、無理が無いでしょう。
そうした、人の概念を言葉にしたものが「和」であったのかもしれません。

18.2 未成熟だから「和」という概念が生まれるか?

もうひとつの観点は、個別化ができない未熟さが「和」という概念を形作るというものです。
これは、ちょっと説得力があるように感じられます。小さな子供たちは、人種、国籍、言葉の違いがあっても、簡単に一緒に遊び、友達にもなれます。それは、様々な個別化についての知識を学んでいない、未成熟な段階であるからです。逆に、「天使のよう」と考える見方もありますが・・・(ずいぶんと危なっかしい考え方なのですが・・・)
同様に、縄文時代の社会的な規模から判断すると、国家概念も大きな組織も成立できていないのだから、無い幼稚な精神状態で、そうした子供たちと同じくらいのものではないかと考えるわけです。ま、平均寿命が二十歳にも満たない時代ですので、それもあるかな・・・という思うのもおかしくは無いでしょう。
言い換えると、「和」とは子供の考え方であるというものです。
縄文/弥生時代の人の意識は、呪術的と私たちが今よんでいるものであることは否めないことでしょう。私たちの感覚からして、子供、という感覚はそれほど外れていないかもしれません。そうした段階では人は大きな組織を作り出すことは比較的困難でもあります。国家や大きな集団が形成されなかったことは、自然です。しかし、そうした段階であるから戦争や抗争が少なくなるかというと、大きな誤解です。それは前個的な人格が素晴らしいものと誤解するのと同様な過ちであり、あまりにも単純な世界観に過ぎません。

今でも日本の対立を避ける傾向について、子供っぽい自我の未確立の話題ととしての指摘が少なくもありません。これは、日本的な和という発想のもたらす弊害のように感じているような印象を受けます。でも、対立を避ける幼稚さが「和」ではありません。対立を避けるために個を犠牲にしたり個我の確立が幼稚に留まるのは、「癒着」とか「相互依存」というべきものです。「和」という言葉は、個我の確立と対立が前提なのです。
先に紹介した一七条憲法では、多くの人が話し合って決めろと繰り返し述べています。対立があるからこそ、つまり相互依存や癒着が無いからこそ、そうした話題が出るわけですね。
そもそも、未分化な世界観から「和」という概念が生まれていると考えることは、本質的に、矛盾があります。対立があるからこそ、明確に「和」という概念が認識されるのであり、分化された世界観がなくては、対立が無いのですから、「和」という概念も成立し得ないからです。

縄文文化と弥生文化の抗争の中で、弥生文化の中に浸透していく縄文文化の遺跡群が発見されていますが、縄文人が弥生人との対立の中で、それを超越して弥生人の間に入って行った、行動をそのまま示しています。それは、命をかけた明確な意志として行われるものであり、子供が見ず知らずの子供たちと一緒に遊ぶのと同等に理解することは、不自然すぎます。

結局のところ、「和」という概念を対立を知らない子供のものであると同じに考えることは、前個と超個の区別が無いのと同じ、稚拙な発想に過ぎません。

18.3 「和」という概念の誕生

縄文人は、紀元前2000年のときに激しい気候の悪化のため人口が激減しました。三内丸山も放棄され、小さな集落が点在するようになりました。このようなときに、生存をかけた闘争が激化することはおかしくはなかったはずです。現実に、地球の他の地域では文明の勃興と、新たな闘争が激化していました。しかし縄文社会は、いろいろに発見を鳥瞰してみてみると、大きな集落を形成するのではなく複数の集落が共同することで、大きな作業を行うようになり、そうした時代に対応したようです。
このころには、日本人がいう「和」の概念が成立していたと考えることは、けっこう自然に思えます。人の行動は、自身の認識まま行われるのですから・・・。

そして、このような概念の源泉は、今も昔も常に人の中にはあります。

そうした概念が「森の民、縄文時代」に生まれ、私たちの文化に組み込まれたと考えることは自然でしょう。
そして、その幼稚な形であるけれども真実な概念であるものは、言葉ではなく、概念としてこの国の文化に組み込まれたのではないでしょうか・・・後の世に、神を人が理解した際に、現代の道徳の基本を私たちの中心として位置付けたように・・・。
イヌの葬儀を行う縄文人、イヌの死骸をごみとして取り扱う弥生人という話題がありますが、この背景には、縄文人が基本的な発想に非二元的世界観に近い概念を持っていた可能性を感じます。そして、そうした概念こそ、対立を超越する知恵の源泉であり、「和」という概念の源泉でもあります。

呪術的段階の時代に、平気で非二元的な世界観の話題を出すのは、ちょっと考えると不思議に思われるかもしれませんが、その理由は簡単です。人の心のあり方の進歩には、いくつかの経路があるからです。そして、どのような段階であっても、大切な概念には到達しうることが知られています。私たちが知る人の叡智は、文字が作られてから残されたものですが、その前であっても形を変えてそうした叡智ははあったのかもしれません。それが、世界的にも例が少ない、比較的短い時間で、比較的少ない抗争で、異なる縄文と弥生という文化の融和を実現して国家を形成していったのではないかと、ロマンを巡らせてしまう理由です。

NHKの番組を見た後、ああ、なるほどなと思った背景は、昔から不思議であった日本史の謎があったからでした。もしも、「和」という概念が縄文時代に成立したかもしれないとすると、縄文時代に端を発する日本人の民族的世界観として納得できると感じました。私には、昔から疑問であった、謎でしたが、それが解けたような気がしました。
やがて「倭」とよばれていたこの国は、自分たちで「大和」とよぶようになっていきます。
このような、精神的な背景があったのではないかと思わせる話題で、気になるものがあります。
それは、十七条憲法からさらに二百年ちょっと経ったときの出来事です。空海が密教秘儀の本流を日本に伝えたのでした。

19. 空海の謎

日本では、仏教の様々な精華が今も残されています。もちろん、テレビで除霊をされるという仏教者の方のように「は?」という感じの方も多いのでしょうが、だからといって、仏教の伝える真実の価値を下げることはありません。
このような智慧の精華は、今のインドに端を発し、中国からもたらされたものが多いわけですが、ここにも多くの謎があります。その中でもドラマチックなのは、弘法大師といわれる空海ではないでしょうか・・・。
空海は、18才で奈良にあった唯一の大学であった「明経科」に入り、出世のための教育内容に失望して中退し、その後、山野で修行したといわれています。

このときに、修験道なども学んだといわれています。しかし、またまた、森が話題になってきましたね

31才で留学生に選ばれ遭難しながらも中国に留学、梵語なども学び翌年には密教の中心的な寺である青竜寺の恵果和尚を訪ねました。

国費留学生ではありませんでした。この費用をどのように集めたのかは知られていませんが、空海は世知に長けていた点もあるようです。また、留学期間は20年・・・なんかドルイド僧侶の長いほうの学習期間として伝えられている期間と一致してきますね。

恵果和尚は空海を見込み、潅頂(かんじょう)を授けます。

日本に伝えられた密教では、結縁潅頂(けちえんかんじょう)という儀式があります。曼荼羅に象徴される大日如来と縁を結び、自身の内奥にある仏の智慧を自身に導くための、シンボリックな儀式です。

このとき秘儀を授けられたのは、日本僧の空海と中国僧の義明でしたが、すでに恵果和尚は自身の死期を悟っており3ヶ月後に亡くなりました。そして、義明は若くして亡くなってしまい、密教の法灯は日本へと伝えられたのでした。

この際に、空海は膨大な密教の経典と密教秘儀を日本にもたらしています。

空海と恵果和尚の出会いの場で、「お前を待っていた」といわれたと伝えられていますが、空海はすでに同じ都市に渡ってから1年は経っていましたので、ひょっとしたら恵果和尚は空海のことをちょっとは事前に知っていたのかもしれません。(世知にも長けていた印象のある空海のことですから、いろいろと準備もしていたのではないでしょうか)ただ、大切なのはそうしたドラマチックなイベントではなく、恵果和尚が密教秘儀を伝えうるとすぐさま判断したこと、そのものにあります。密教秘儀のようなものを伝えることは、本を読んでわかるものではありません。ですから、教えましょう、ありがとう、では伝わらないのです。受容できる意識が求められるからです。

空海が日本にもたらした密教を見ればわかるように、ある程度の修行の果てに秘儀は伝えられていきます。これは、受容できるだけの意識の育成に必要な過程があるからです。もちろん、そこで重要なのは量としての時間や形としての修行ではありません。しかし、そうした前提を踏まえて考えると、恵果和尚がすぐさま空海の能力を悟り、空海も短時間に秘儀を受容し得た背景として、空海自身が当時すでに、密教が伝えんとする概念に近いものに到達していたと考えるほうが自然です。つまり、日本にいる間にも、空海の概念は密教が伝えるような概念に近づいていたのではないかと思うのです。

空海(弘法大師)が日本に伝えた概念は、こちらをご覧ください。

空海が日本の山野で修行していた段階で、密教のごく一部の経典は日本に伝えられており、空海が学んだであろうと想像されている修験道ではそれは知られていたといいます。ただ、それだけでは空海の概念がそれほどに進展するとは思えません。密教は、経典だけで理解することが困難だからです。
先の和の話題でも触れましたが、日本の古代において、全く異なる形であっても、同様な概念があったのではないかという可能性を感じます。それは、明確な言葉ではなかったでしょう。福音書を飾るケルトの表象のような、不明確なものであったかもしれません。

しかし、そうした概念が昔から・・・つまり縄文時代から、伝わっていたのではないか・・・空海は、山野でそうした概念を学びもしたのではないか・・・そう感じさせる話題でもあります。
日本は、そうした背景を維持しながら、今日につながって来たのではないでしょうか?

20. 日本的な発想の原点は古くからのものではないのか

若い頃、アメリカの人と話をしていて、率直な質問を日本について受けました。

「日本は中国があんなに近いのに、なぜ全く異なる文化を発展できたの?」

日本では戦時中の教育の反動からか、中国や朝鮮からの影響が強く説明されていますが、客観的に見ると全く異なる文化圏として成立しています。この質問は、当時の私には答えられませんでしたが、今の私はきっとこう答えるでしょう。

「きっと、太古の時代に日本人の基本的な考え方が確立されて、文化の接触があったときに巻き込まれないだけのアイデンティティが確立していたんじゃないかな・・・」

その考え方の基本が、非二元的な発想ではないかと思います。
日本語で使用される様々な言葉には、いろいろな考え方の精華が知らない間に定着しています。大きな理論的な背景としては、仏教的なものが多いですが、比較的最近の用語でもユング心理学用語が多く定着しています・・・内向的、外交的などという用語は、すべてユング心理学用語です。
ケン・ウィルバーが説明しているようなインテグラル・セオリー理論を初期によく受け入れたは、日本とドイツだと、彼の著書にも書かれていました。

以下は、「グレース&グリット」上巻280〜281ページからの転載で、トレヤの癌との闘病生活に疲弊したウィルバーが、ドイツ・ボンから来たエーディトから電話でインタピューの依頼を受けている部分の会話です。ちょっと長いですが、ケン・ウィルバーが自身をどう思っているのかも説明しているので、そのまま紹介します。 右の写真はここでご紹介するタホーでの苦しい生活直前に撮られたケンとトレヤの写真です。トレヤの頭髪は抗癌剤治療の副作用のためなくなっています。
「事情はこんなんですよ、エーディトさん。もうずっと前に、人の前に教師として自分を示すのは、インタビューであれ何であれ、やめようって決めたんです。なぜかというと、あがってしまうということもありますが、もうひとつの理由は、みんながわたしのことを何かのマスターとかグルとか思いたがっているけれど、私はそうじゃないからです。インドでは、専門家とグルは別のものです。専門化というのは単なる学者、というか、学者兼修行者なのでしょうが、ヨーガのようなテーマを研究したり実践はしていても、悟っているわけじゃないんです。グルとは悟りを得た師のことを言います。わたしは専門家であって、グルではありません。実践に関しては、他のみんなとおなじ初心者ですよ。そういうわけで、ここ十五年で受けたインタビューは、たった四つしかありません。ときどき書面で質問にお答えすることがありますが、わたしのしていることといったら、まあそんなもんですかね」

「わかりました、ウィルバーさん。でも東洋の宗教と西洋の心理学を統合してみせたあなたのお仕事は、まぎれなく素晴らしい業績ですわ。わたしはグルとしてではなく、専門家としてのあなたのお話をうかがいたいのです。ご存知のことと思いますが、ドイツではあなたの本はとてもよく読まれています。一部の人たちではなく、アカデミズムの主流派に強い影響を与えているのです。あなたの本10冊すべてがドイツ語に翻訳されています」
リスは三匹とも、繁みの中に隠れて見えなくなった。
「そうですね、わたしの本は、ドイツと日本では大ヒットしましたっけ」。ぼくはエーディトのユーモア感覚を試そうと思い、こう言った。「この二つの平和好きな国でね」。
エーディトはしばらく笑った後、こう言った。「ドイツ人だって天才に会えば、少なくとも賞賛はぐらいはしますわよ」
「狂った天才かもしれませんよ。私とトレヤはちょっと今、つらい目に遭っているんですよ」
ふと、リスの鳴き声が聞こえたような気がした。リスさん、こっち、こっち、ここだよ・・・・。
「フランシスとロジャーからテリー(トレヤ)のことは伺いました。とてもお気の毒です。まったくひどい話だと思います」
・・・・

ここでは触れていませんが、ゲルマン民族の太古の宗教は人格神ではない多神教的概念があり、日本の神道にイメージが近く、ドイツでもそうした考え方が現代に通じている可能性があります。つまり、基底的な発想に日本人とドイツ人は類似があるのかもしれません。それが、インテグラル・セオリー的な概念を比較的容易に理解する素地になっているのかもしれません。

日本人は、ドイツに行くと全く違う光景なのに、違和感を感じない人が多いです。その本当の背景は、この辺にあるのかもしれません。

そのような理解に至りやすい文化的背景が、日本には綿々と伝わり、それが日本人の強さなのかもしれないなと感じるロマンが、ここにあります。

21. 浜崎あゆみのシッポの秘密、そして今

さて、ドルイド教団、縄文文化が弥生文化に浸透していく話題、和という概念を重視した日本の古代、空海がひょっとしたら留学する前にすでに密教秘儀に近づいていたのではないかという話題、これらの話題はすべて同じテーマに基づいています。それは、形を成しているとはいえないけれども、インテグラル・セオリー的な概念が、文字を発明する以前から生まれ伝わっていたのではないかということです。
そのキーワードである、非二元的な考え方、そうしたものが発現していく過程で、浜崎あゆみが、呪術的な発想に近い動物的表象との合一を志向した、それがシッポの秘密ではなかったのかと、私は思います。そして、そうした彼女の音楽が、日本から生まれたことに、太古からの意識のつながりを感じてしまうのです。そして今、彼女はこう歌っています。

・・・・・
きっと光と影なんて
同じようなもので
少し目を閉じればほらね
おのずと見えてくる
喜びのうらにある悲しみも
苦しみの果てにある希望も
・・・・・

浜崎あゆみ Daybreak アルバム I am...より

いいなあ、あゆは・・・
2002/3/17


脚注1

アルケミストというベストセラーがあります。そのクライマックスのシーンからこのタイトルをつけました。
「少年は大いなる魂に到達し、それが神の魂の一部であることを知った。そして、神の魂はまた彼自身の魂であることを悟った。そして、一人の少年が、彼自身が、奇跡を起こすことができると、知ったのだ。

................................................................

その日、シマム(砂漠の激烈な嵐)はかつてないほど吹き荒れた。その何幾世代にもわたって、砂漠の最強の首領に挑戦して自分を風に変え、軍隊の野営地をほとんど破壊した少年の伝説を、アラブ人たちは語り伝えることになった」

(「アルケミスト」パウロ・コエーリョ著 山川紘也、亜希子訳、地湧社、P184-5より)


脚注2

日本がそうならなかったのは、当時の日本人の実力と正しい判断が合ったのではないでしょうか・・・当時世界の多くが植民地となっていっていました。アジアでも独立を維持できた国は少なかったです。

脚注3

私はずいぶん前に読んだので5冊くらいしか知りませんでしたが、調べたらそれくらいあるみたいです。
ちなみに、昔読んだときは5冊全部もってたのですが、もう捨てちゃってて、ここで紹介する本だけしか残っていませんでした。実は、全部捨てたと思ってたので、残っていて幸いでした。

脚注4

一説にはラモンという名のウイチョルインディアンの呪術師との話も・・・1971年に殺されたらしいですが・・・真偽の程は・・・(^^? あんまり具体的だとかえって信じない性格なもので・・・。

脚注5

紀元前約6000年〜4500前後に中央ヨーロッパに居住していたと思われている、インド・ヨーロッパ祖語を話していた人々の末裔すべてのこと。インド・ヨーロッパ祖語とは、18世紀に、イギリス人サー・ウィリアム・ジョーンズがインドの古代語であるサンスクリット語がギリシア語やラテン語と共通の源であることを発見し、その源となった言葉をいいます。その後の研究でヨーロッパで用いられているほとんどの言語が、この一つの源からから発していることがわかりました。ヨーロッパの言葉は、親戚だったんですね。


-広告について-

Google
  Web www.calvadoshof.com