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風になれ! 浜崎あゆみのシッポの秘密 妖精と・・・魔法と・・・現代

風になれ!

03 愛を超えて

02 いきなり深淵への誘いの続きです
2001/12/27,2002/01/15, 11/25

風になれというタイトルの由来は脚注1をご覧ください

03
愛を超えて

現代において、つまりモダニティの中で、私たちの「意味」を守る最後の砦は「愛」だけとなってしまいました。
20世紀後半の、さまざまな運動や人のよりどころは、愛だけになってしまったのです。
しかし、私たちは退歩しているわけでも、後退しているわけでもありません。
進歩を続けているのです。
いままで知られてきた「意味」を支えるものが、次の時代に進歩しようとしているのが、今の時代なのです。
前章で、浜崎あゆみの音楽が、モダニティの暗闇を照らす、小さな明かりであり、それが共感を得ている源泉であると説明しましたが、この章ではよりそれを深く突き詰め、浜崎あゆみがこれから向かうであろう将来を探ります。そして、愛を超えた先を説明していこうと思います。
この説明のためには、「意味」の本質を説明するために、つまり、「感じ」「考える」ことの意味を理解するために、主観的な事実を、より正しく理解することが必要になります。ちょっとディープな説明になっています。

実は、これから説明する内容が、このホームページにおいて浜崎あゆみに関するコンテンツに「浜崎あゆみよ、風になれ!」と名づけた本当の理由があります。

・・・しかし、ここまで赤裸々にいろいろな説明を行うホームページというのは、いいのかなー(^^?

そして、人の主観とはどのように進展していくのかをご説明します。
その説明は、人の魂の歴史を明らかにするものであり、浜崎あゆみとあなたの、今までと、これからを明らかにするものです。

03.01 
主観、意味を司るもの

私たちは、主観的であることと、客観的であることを、ある程度は理解しています。
しかし、厳密には、ここには4種類の観点があります。それは、すでに説明したの4つの象限に対応しています。
4つの観点とは、

主観
客観
間主観
間客観

です。

この中で、間主観間客観というのは、初めての方多いのではないでしょうか?
これらの意味を知ることは、理解することの意味を区別することができるようになるので大切です。

上の図は、その意味を説明するために先に説明した図に、主観客観、そして、間主観間客観を書き加えたものです。

主観

左上が主観です。
個的な視点に基づいて、自分自身の内面を述べる世界です。
確信をもって誠実に述べるほどに正しい、つまり妥当性があると考える世界です。つまり妥当性の基準は、客観的な事実の中にはなく、信頼性に基準があるのです。信じる力の源が、主観にあります。
たとえば、あなたが「外で雨が降っている」と聞かされて、それを信じる、信じないという具合になります。

客観

右上が、客観を示しています。
個的な視点の基づいて、事実関係を述べること(叙述)することで表される世界です。
対象を正しく述べるほどに正しい、つまり妥当性があると考える世界です。そして、意味の解釈は伴いません。信じる、信じないは関係ありません。事実なのですから・・・。
たとえば、外を見て「外では雨が降っている」という具合にです。

間主観

左下が間主観です。
多くの主観に基づいいた共通的な主観について述べる世界です。
多くの主観が、確信をもって誠実に述べるほどに正しい、つまり妥当性があると考える世界です。つまり妥当性の基準は、客観に基づく事実の中にはなく、信頼性に基準があり、多くの人の信じるところに、間主観があります。
たとえば、関東地方の多くの人が「雨が降っている」というので、関東地方に雨が降っていると納得するわけです。

ちょっと突っ込んでみますが、この場合で、レーダー観測で雨が降っていると信じる場合は、レーダーを主観として信じるという問題であり、間主観とは異なりますが、多くの人がレーダーを信じているのであれば、それは間主観でもあります。余談ですが、多くの人が見たことも触ったことがなく、しかも報道する人の誠実さも確認していないのに、レーダーの観測結果に基づく天気についての情報を信頼する力、それが主観のうちにあり、多くの人がそれを共有しているのであれば、間主観でもあるわけです。しかし、ちょっと待ってください、多くの人が信じているからあなたも信じるのではないでしょうか?ここに、間主観と主観の、絶ちがたい関係があります。これについは、後で改めて述べましょう。

間客観

右下が間客観です。
多くの客観に基づいた共通的な客観について述べる世界です。
多くの視点の基づいて、事実関係を述べること(叙述)することで表される世界です。
対象を正しく述べるほどに正しい、つまり妥当性があると考える世界です。そして、意味の解釈は伴いません。
たとえば、「観測の結果、関東地方には雨が降っている」という具合です。これには、他の地域には降っていないという意味も含まれるようになったわけですね。


03.02 
真実性とはなにか

どの観点であっても、それが真実であるかどうかについて、拠りどころとする基準が存在します。この基準は、4つの観点、それぞれにおいて異なります。言い換えると、一方の真実が他方の真実を示すわけではないのです。
客観間客観のいずれも、事実を正しく述べることが、真実であることの証しになります。客観間客観の違いは、その事実を眺める場所の数の違いです。
主観間主観では、誠実に述べているかどうかが、真実であることの証しになります。言い換えると、事実は重要ではありません。主観間主観の違いは、数の違いです。多くの人が同様に主観的に捉えているものが間主観であり、相互理解の中核となるものです。

浜崎あゆみの音楽の特徴は、音楽そのものよりも、間主観にキーワードがあります。
元来、芸術とは主観の域を貫いて、間主観の領域の領域に到達しているものが、多くの人からの強い支持を受けるキーワードとなります。芸術を技術として理解するだけでは、このキーワードに気づくことはできません。これに関連した話題は、「アーティストと歌手の違い」に詳しく述べていますので、ご覧いただければと思います。

私たちの認識は、常にこれらの中を彷徨っています。
実は、現代の多くの認識は、本当は主観間主観により支えられています。学校で学んだこと、社会で学んだことの多くが客観であると、信じて学んでいるのですから・・・。でも、現実には、その客観も危うい点が多く、自然科学ですら10年もすれば異なることを教えていたりします。社会科学においては、なにをかいわんやとなります。
私たちは、生まれてから様々なことを学びます。
あらゆる動物の中で、一人前になるためにたくさんの時間を必要とするのが私たちです。

03.03 
主観は間主観から育てられる

現代の哲学的、心理学的研究の成果のひとつは、主観が自然には成立していないことを明らかにしたことです。人が育ち成長する中で、言葉を学び、さまざまな心のあり方を経験し、間主観の中で、自身の主観を育成していきます。
主観、つまり私たちの考え方、感じ方は、間主観が持つ傾向や、言葉の構造の影響を受けています。
もっとわかりやすく述べると、あなたの考え方、感じ方は、あなたの親御さん、家の近くの人たち、親類、友達、テレビによる報道の影響を受けて育ち、あなたの住む地域の文化的な影響受け、日本という国の文化の影響を受け、国際情勢や国際的な認識の影響を受けています。そして、それを理解するために使用している、日本語が持つ構造的な特長からも、影響を受けています。

ここで注意していただきたいのは、「影響を受けている」と説明していることです。
つまり、それらによってだけ偶然あなたの主観が育成され構成されているのではないということを暗に示しています。
すでに、私たち人類は、人の中に、人の心のあり方が進められていく形式があることを、つまり人の魂の歩む共通の軌跡を発見しています。それは、私たちが知るどのような間主観の中にあっても同一となるもので人の真実の姿でもあります。

このことが、これから説明する内容の本論です。

主観は、間主観から、どのように理解したらよいかを学ぶのです。
これは、文化が異なっても、同一の主観を、全く別な言葉、考え方で示すことができる可能性を示しています。
どのような文化でも、「あなたが好きだ」とか、「これは正しい」とか、そうした概念はあり、それに対応した言葉もあります。ユダヤ教の神話には、遠い昔、人はひとつの言葉を話しており、神の怒りから言葉を相互に通じなくされたというものがあります脚注2が、そう考えたくなるほどに、人の言葉は違っても、伝えるものは共通な点が多くあります。もしも、文化的な相互交流にこの共通点の源泉があるならば、ヨーロッパ諸国の言葉のように脚注3、人の言葉はもっと近いものになっていいのですが・・・。

03.04 
心の軌跡

これから述べる話題は、人の心と魂の歴史を述べることになります。誕生間もない幼児から、世界をすべて受け止める魂までに至るまでの歴史を述べます。そこには、浜崎あゆみとあなたの魂の歴史が述べられているのです。
心理学や哲学による間主観の研究により、人の心の発展していく軌跡がどのようになっているかが、明らかになってきました。それぞれの段階には学者がつけた名前、ぴんとこないちょっと聞きなれない言葉が出てきますが、その意味はそう難しいものではありません。

これから説明する内容も、ケン・ウィルバーの定義に従っています。

00 
プライマリーマトリックス(一次的母体) または 未差異化

生まれたばかりの幼児の状態では、人は言葉も論理的に考えることもできません。
また、自分の感覚しかなく、自分と他者の区別もありません。物質的な自分と、物質的な世界の区別もありません。自分の親指とおもちゃは同じものであり、世界はすべて食べ物でもあります。このようにすべてが融合している状態、差異化ができていない状態をプライマリーマトリックス(一次的母体)といいます。すべてが始まる基本となる状態です。
この状態について誤解して、幸せであると考える人たちがあるのですが、実際は自己愛だけの世界なので、もっとも狭い意識の状態です。

もっとも、こうした状態を幸せであると考える人たちの内には、さまざまな意識の統合へのあこがれがあるといわれています。

また、この段階には、出生前の子宮内状態、そして出生外傷とよばれる話題も含めて分類されています。

出生外傷とは、分娩前後に受けた精神的なダメージが影響を人に与えることをいいます。その結果として、病的コンプレックスを発生すると言われています。

01 
ハッチング(孵化)

生後四ヶ月〜十二ヶ月(通常は五ヶ月〜九ヶ月)で、人は身体と身体ではない物質の世界を区別するようになります。自分の親指をかじると痛いのですが、毛布をかじっても痛くないことを理解するのです。
このことにより、人はプライマリーマトリックス(一次的母体)からハッチング(孵化)して、物質的自己を誕生させます。
この段階では、物質的な自分と自分以外は理解できるのですが、自分の心理的なものと自分以外を理解することはできません。つまり、世界を自分と自身の延長として取り扱います。これを、情動的には差異化していないといいます。

この段階に間違いがあると、精神病の主な特徴のひとつである無二元性、つまりどこまでが自分で、どこから毛布なのか区別がつかなくなります。さまざまな研究が、重度の精神病、精神分裂病、重い情緒障害の病因の一部に、この段階のトラブルがあることを示しているそうです。この段階の病理は非常に重いため、薬物を処方する精神科医が取り扱います。
精神的な病理は、このように心の軌跡が段階を経る際に、なにかの理由で取り残され、段階を超えることができないで残されてしまうことに、多くの原因があります。この残されてしまった、前の段階の心の状態は、意識しない意識、つまり無意識として存在しつづけます。
無意識について誤解していただきたくない点があります。それは、このように古くからの発達できない部分だけが無意識ではないということです。無意識は、意識できない意識すべてを無意識というので、様々なものが含まれているのです。無意識には、人を導くような、別な力もあります。

この段階で、人のいる場所は物理的な世界、つまり物質圏に至ります。
この段階の世界観を、古層的といいます。
世界観とは、間主観的なものですので、先の図では左下に分類されます。

これ以後、人のいる場所、は進展を続けますが、注意していただきたい点があります。それは、このような進展があったとき、それ以前のものは、なにも失われないということです。それ以前のものは超越され、やがて中心を成すものとは無くなっただけです。言い換えると、どこでも問題があると、そのまま保存されていきます。そのような話題を明らかにするために、段階ごとに問題があったとき、どのようになるかを説明するようにしています。それらの問題はも成人してからも残っている場合があります。

02
幼児の心理的誕生(情動的自己の誕生)

生後十五ヶ月〜二十四ヶ月ぐらいから、情動的自己と情動的環境の差異化が始まります。これを、幼児の心理的誕生といい、情動的、感情的に誕生します。
ハッチング(孵化)の段階は、世界すべてを情動的に理解しており、自分と環境を区別することができません。これを情動的自己を情動的環境から差異化することができないといいます。
いいかえると、世界をすべて自分として取り扱っており、強力な「自己愛」の段階です。これは、利己的であるという意味ではなく、自分について考えることができないということです。自分の望みは世界の望みなのです。これは、この段階では全く正常なことです。

時々、子供を親と同じ世界観をすぐに理解できるものだと誤解している人がいます。
親が子供を折檻死させている報道を見ていると、教育と称して親の世界観を子供に強制している話題が多いようです。親自身にも多くの問題点がありそうですが、根本的に、心の発展の段階を無視している、その考え方に本質的な誤りがあります。
この考え方の背景には、前節で説明した、「それ」の世界観に基づくすべての平等性についての信仰があり、これは、誤りにほかなりません。繰り返しになりますが、人がものを認識する世界は、解釈により立ち入る必要があり、子供がどう考えているかを解釈せずに対話してはならないのです。

分離した世界の中に、分離した自分が存在することを理解します。孤独という意識を理解できるようになるのです。

この段階に間違いがあると、自己愛的人格異常(世界を自己の延長として理解する)や境界線障害(自己が世界から絶えず侵され苦しめられると考える)になります。
この段階の病理の場合、構造構築的技法を得意とするセラピストが取り扱います。

欧米では、聖書の失楽園のイメージがこの段階とオーバーラップするため、一部では人の苦しみの始まりとして考える人もいるようです。実際のところ、正しい認識を得ているわけですが・・・。
この段階で、人のいる場所は生き物としての世界、つまり生物圏に至ります。
この段階の世界観を魔術的とか呪術的といいます。次に説明するように、この段階ではイメージシンボルが理解できるようになってもきているのですが、それらと実際の対象が区別できていません。ですから、イメージやシンボルと、実際の対象が互いに影響を与えあっていると考えています。雲があなたを見るために追いかけてくるとか、心で気に入らない人のイメージに害を成せば、実際に気に入らない人に害が及ぶとかです。心と世界が差異化されていない、魔術的に融合された世界観で、自己中心的で、自己愛的です。繰り返しになりますが、世界観とは、間主観的なものですので、先の図では左下に分類されます。

03
概念的自己の誕生

生後7ヶ月くらいから、心的なイメージが幼児には現れてきます。このイメージとは、具体的なもので、犬を思うと、犬らしいものに見えるものです。
やがて、2歳くらいから、「ママ」とか「パパ」として親を呼べるようになります。つまり、イメージではなく、シンボルとして似ていないものから対象を認識できるようになります。
シンボルは二歳から四歳まで意識を支配し、やがてより抽象的な概念が現れます。つまり、自分の「ママ」や「パパ」の他に、他の「ママ」や「パパ」があることを理解してきます。
概念は四歳から七歳まで意識を支配します。
この概念が理解できるようになったとき、概念的自己が生まれます。自己は、感覚と衝動だけではなく、シンボルと概念も得るようになるのです。
この段階で、人のいる場所は、心の世界、心圏へと進みます。
概念は、言語的なものです。これは、物理的な世界とも情動的な世界とも異なる、新しい世界です。より、広く制約されない自由な段階に到達しています。自己は過去を振り返り、未来を思い描くことができるようになります。実際に感じていないことを、心に思い描くことができます。後悔し、悔恨を感じることができ、心配し恐れることもできるようになります。このような力のため、お腹が空いても我慢することができるようにもなります。
そして、この段階に至ると、生物圏や物質圏の衝動を、抑圧することができるようになります。それまでの段階では、抑圧すべき自己が弱いために、抑圧は発生せず、情動に従い、情動のままになります。

この段階で生物圏に対して心圏が抑圧しすぎると、精神神経症となります。心的自己が現れ、身体的な衝動を抑圧し分離することができるようになったため、性的な衝動や攻撃的な衝動などを抑圧しゆがめ、神経症的兆候となっていきます。これは、生物的な危機でもあります。

この段階から、抑圧という自己を防衛する力、防衛機制が働くようになります。抑圧は、正常に働けば、自己を保全し安定させます。しかし、行き過ぎると、自己に対して目を閉じ、嘘をつくようになります。自己の本来の姿の代わりに、偽りの自己が生まれてきます。
人は、本当の自己に誠実であることも、偽りの自己として欺瞞の中にあることもできます。このことは、これから説明するすべての話題の中でもいえることです。しかし、欺瞞の中にあるとき、やがて自分自身の重さのために、偽りの自己は瓦解します。瓦解後、同じような偽りを改めて続けるか、偽りを究明するかの選択が行われるようになります。
この段階の世界観を神話的世界観といいます。自分がまわりに魔術的に命令することができないことを理解しているのですが、他の人にはできるのではないかと考えています。言い換えると、神々、悪魔や特別な力を持つ英雄たちがそれを可能としてると考えます。複雑な神話的世界観を発達させますが、子供のエゴを超えるものではありません。魔術的な世界観では、自身が世界を変えることができのですが、この段階に至ると、悪い方向に世界を変える力を持つ神や悪魔をなだめるために時間を費やすようになります。自己中心的な力は、自己中心的な祈りと儀式になっていきます。
神話的な世界観は、現実を変えるためには、自分自身で働きかけなければならないことを理解する段階に至り、なくなっていくことになります。

すでに説明したように、それまでの経緯は、超越されていますが失ってはいません。ですから、概念的自己が出現したあとであっても、魔術的、呪術的な世界観は失われているのではなく、中心を成す世界観ではなくなっているだけです。ですから、私たちは、成人した後であっても、その段階の世界観の話題の中で楽しむこともできます。ファンタジーなどの楽しさの源泉はこの辺にもあります。そして、そのような感覚を楽しむ中でも、より進んだ世界観をミックスして楽しむことで、現代のような複雑なファンタジー小説/映画が作られています。それが、現代のファンタジー映画が、古くに作られている神話的ストーリーとの違いです。おそらく、神話が主流であった時代では、現代に作られているようなストーリーは受け入れられることはなかったでしょう。反面、現代のそのようなストーリーで、現代の世界観だけで作られている駄作も数多くあります。

04
役割的自己の誕生

六歳〜七歳ごろに現れて、十一歳から十四歳まで中心をなす、心的規則を作り上げ、心的役割を担うことができる「具体的操作的認識」を行える自己に成長した段階です。

わかりやすく説明すると、深夜の車が交通が全く無い道路にある横断歩道で、赤信号であるのを見て、信号が変わるまで待つことができるようになります。このように、渡りたい、しかも渡れる状態であっても、ルールを遵守することのほうが大切であることを理解できるようになります。

「具体的操作的認識」を発見したのは、ピアジェとインヘルダーによる有名な実験で、ボールの半分を赤に、もう半分を緑に塗ったものを、その一方を子供に見せるというものでした。
「具体的認識的操作」ができない段階、つまり前操作的な段階であると、このボールを前にした子供は、向かい合って座って「坊やに見える色はなに?」「おじさんに見える色はなに?」と質問すると、両方に同じ答えを行います。つまり、相手の立場で考えることができません。
「具体的認識的操作」ができるようになると、同じ質問に対して、それぞれに見える色を答えられるようになります。つまり、自分の見方だけがすべての見方ではないことを理解するようになっています。
この段階に至り、子供はの道徳的姿勢は、自分中心であった姿勢から、周りに合わせることを学び(他者の承認)、法と秩序を行う段階へと移行します。つまり、いわゆる「いい子」や「優等生」になることの意味を知るのです。

現代の教育システムが、子供に対して成績や肉体的能力によりクラス分けすることを極端に恐れています。それは、表面的にはすべての人が平等であるから、などということになっていますが、実際のところ、心理学的な調査から多くの問題があることを発見したためです。問題が生まれるのは当然で、本人が「いい子」や「優等生」を目指しても、科学的、論理的に組み立てられた現代教育においては、具体的になにが「いい子」や「優等生」が示されてしまっているので、主観的にそれを目指しても、客観的に否定されます。つまり、はじめから挫折してしまいます。この挫折は、問題なのですが、その対処は間違っています。つまり、差を明らかにしないという教育により挫折を知らない純粋培養をしてしまうと、その後の精神的な進展が遅れるかもしれないからです。実際のところ、現代の若者が社会に出て最もショックを受けるのは、常に評価され、差別化されている現代社会の実態ではないでしょうか・・・。企業ではそうした新人が増加の一途を辿っているため、どうしていいのかわからないと嘆いている事も少なくありません。

この段階に至ると、大切なことは自身の衝動に合わせるのではなく、どのように自分の役割を果たすのかが大切になります。つまり、自分のグループ、仲間の中で、どのように役割を果たすのかが大切になります。これは、やがて自分の郷土、国家にあって、よりその一員であるにふさわしくあることを求めるようになります。このような変化は、これまでエゴ中心であったことから、社会中心へと変わる事を示しており、大きな変化です。
注意が必要なのは、自身の属する集団に関心が拡大しているだけであり、それを超えることは無いことです。民族中心的な姿勢が強く現れています。
この段階の世界観は、未だに神話的な世界観にとどまっています。関心は、同じ神話、同じ人種、同じ信条、同じ文化の人々に留まります。そうでない人々は、呪います。
役割と規則が、身体や直接的な衝動に取って代わります。自己には、教えられた役割と規則、そして自身の作るさまざまなシナリオがあり、それを演じるようになります。この脚本とは有用なもので、自分自身を他者の中に引き入れる手段となるものです。そして、他者を通じて世界を理解する、広い意識を獲得するようになります。

このシナリオのあるものは歪み、残酷な、偽りの歪んだ社会的仮面と神話に満ちたものがあります。「私は自堕落な人間で、だらしなく、なにもすることができない」とか、「この仕事が失敗したら私はおしまいだ」とか「あの人が私を愛してくれないのは、誰も私を愛してくれないことと同じことだ」などです。これをシナリオ病理といいます。アロン・ベックの研究では、ほとんどの抑うつの場合で、一まとまりの偽りのシナリオ・信条をもっていて、そうした神話を復唱することを発見しています。

05
世界中心的、成熟したエゴの確立

十歳〜十五歳に、形式的操作的に意識が表れてきます。この意識は、今後一生継続していきます。そして、この後は形式的操作の中で人の意識は拡大を続けていきます。
具体的操作的な段階の意識の場合、具体的なものしか取り扱うことができませんが、形式的操作的段階に至ると、まだ無いものを想像することができるようになります。このような背景から、それまで鵜呑みにしていた役割や規則を評価できるようになります。

わかりやすく説明すると、深夜に車の交通が全く無い道路にある横断歩道で、赤信号であるのを見て、信号を無視して渡ることができるようになります。これは、小さな子供が信号を無視して渡ることとは、主観的な意味が全く異なります。ルールを理解した上で、自身の判断でルールを評価し、ルールを超越したわけです。つまり、ルールそのものを超越しています。

ピアジェ脚注4の実験では、一定の組み合わせで混合すると黄色になるような液体を含む、3種類の透明な液体をコップに入れて、黄色に変化させるように指示します。具体的操作的な段階であると、闇雲に混ぜ合わせをはじめ、偶然その組み合わせを見つけるか、あきるまで続けていきます。形式的操作的段階であると、すべての組み合わせを考えてから、順にその組み合わせを試すようになります。つまり、別の可能性を想像し、全体を掌握して、自身をその世界に導くことができます。
形式的操作的段階は、人の内面世界を切り開く重要な段階です。この段階に至ると、自身で未来における理想的な可能性を思い描き、その夢に向かって世界を変えるように働くことができるようになります。

また、思考について考えることにより、真の内省が可能となります。内面世界が心の目の前に広がり、外部の自然からでもなく、神話的な神からでもなく、習慣的な他者からでもない、内なるビジョンを見出すようになります。この内なる声は、不思議な、奇跡的な仕方で、やって来ます。

そして、形式的操作的な段階の意識は、それまで鵜呑みにしていた役割や規則を評価できるようになります。道徳的な姿勢が習慣的なものから、後習慣的に移行し、自分の属する習慣的社会を批判できるようになります。規範が良いのか悪いのかを吟味することが可能となります。
自分の社会中心的、民族中心的な世界観を吟味できるということ、それは世界中心的なものの見方に移行したことを示しています。つまり、すべての民族にとって、公正で正しいことを知ろうとします。この段階で、人は自分の属する集団が唯一のものではなく、自分の神が唯一のものではないことにも気づきます。
この世界中心的な観点は、今後の世界観の中心になります。
そして、この後の世界観の進展は、世界中心的な観点が、より深く、広くなることにより進んでいきます。

この段階に問題があると、自分とは何であるか、自分は誰であるかという混乱に陥る「アイデンティティ危機」になるといわれています。なぜならば、世界のすべてのものを肯定せねばならず、それぞれに差がないと信じるにいたり、また、自分が他者よりも優れていることも、他者が自分より優れていることもないと信じるに至ることができるからです。その結果、変質的な思想、病的な思想(ナチズムのような徹底した自民族優先主義、アメリカで黒人差別で有名なKKK団、日本のテロ事件で世界を驚愕させたオーム真理教)を、そうでないものと同等に扱うようになります。その結果、すでに説明したような偽りの自己を作り上げ、自壊への道を辿ることになります。
これは社会全体であっても同じ経緯を辿ります。日本政府のオーム真理教に対する対応の甘さは、政府の態度が最終的にアイデンティティ危機(に陥っている人たち)に犯されていたことと、その後の社会からの排斥は、社会そのものが健全に機能していたことを示しているのかもしれません。法治国家として、その後のオーム信者に対する対応は、基本的人権にかかわる問題を引き起こしているのですが、なぜかマスコミも社会も、そうした建前を述べないようですね・・・。法治国家として最悪の状態だと思うのですが・・・。アメリカに対するテロ事件に対する国際社会の対応も、同様な背景がありますが、アメリカは政府として対応し、アメリカ社会がそれを支持しているわけです。
そして、根本的な対応とは、強制的な解散や、組織の壊滅ではないことも、おわかりいただけると思います。「アイデンティティ危機」こそが、そうした異常な事件の母体です。

06
自己が心と身体を超える ケンタウロス

自己は、この段階に至ると、心と身体のいずれもが、自身の経験として気づくようになります。つまり、心と身体を観察している、別な自己が、心と身体を超越して存在するのです。この段階の研究をしているプロートンの要約は、これを端的に「心と身体は共に、統合された自己の体験である」と述べています。
この段階に至ると、世界を見つめているのはもはや心ではなく、自己となります。この超越は、力強いもので、心と身体を超越したが故に、心と身体を統合していきます。この統合の形態を端的に示す象徴として、半獣半人のケンタウロスが、この段階に命名されました(命名者はケン・ウィルバーです)。また、この段階を実存のレベルと呼ぶ場合もあります。
この段階の自己は、これは、これは良い、これは悪いという二元的な見方をしなくなります。この世界の見かたは、すべてを相対的に見つめており、不思議な遠近法と名づけられています。これは、自己がより超越を進めたことを示しています。自己がいる世界の中心は、それまでの世界の中心よりもより精妙な段階に至ったのです。
この段階の自己の特徴は、すべての慣習的で麻痺させる慰めを受け入れることがないということです。実存的な自己の誕生は、それまでの有限の自己の死を意味しています。もはや、魔術/呪術では救われることは無く、神話的な神も、合理的な科学も救うことはできないからです。このために、それまで知っていたすべての慰めを失うため、死に至る病、と呼ぶ場合もあります。それは、それまでの世界観に留まりながら、この段階を見つめようとするからです。

浜崎あゆみが、人気が出てきた最中に絶望三部作を作り、自身の苦悩を叫ぶようにアルバムにしたことは、彼女がケンタウロス的な自己を確立していることの現れです。そして、彼女の苦悩の源こそ、彼女の中に残っていた歪んだシナリオとの戦いであり、それに勝利していきました。それが現れた曲がEvolutionであったのだと私は考えています。

そして、この段階の自己はもはや、魔術/呪術的な望み、エゴ中心的な興奮、自民族中心的な興奮という重荷から解き放たれ、次の飛翔の準備が整うようになります。
この段階は、すべての慰めがつまらなくなった魂でもあります。この段階に至るという、それまでの魂の最大の勝利において、世界は味気なくなります。
これについては、ケン・ウィルバーの書籍の引用そのままにしてみましょう。

万物の歴史、p294より
「私がかつて実に多くの意味と実に多くの願望と実に熱い希望をかけることができたものごと、そのすべてはいつのまにか霧散霧消し、長く寂しい夜の間のなにか不思議な時点で消え去ってしまった。だれに向かって私は歓喜と高揚の歌を歌うことができるのか?あの暗い、地獄のような夜へと静かに送られた、助けを求める私の声を誰が聞いてくれるのだろう?日々私の脇腹を刺す剣や槍に耐えるための不屈の精神をどこに見つけられるのだろう?そしてなぜ私は努力すべきなのか?で、そのとき私はどこにするのだろう?戦うか降伏するか、それはすこしも問題ではない。なぜならば、絶望の出血のうちに、私の人生の目標は静かに出血多量で死んでいくのだから。
これは、すべての願望が希薄で、弱くなり、活気が無くなった魂です。これは、まともに実存に直面して、それにすっかりいやになっている魂です。これは、パーソナル(個的)なものがすっかり味気なくなった魂です。これは、言い換えれば、インテグラル・セオリー(超個的)なものの間際にいる魂なのです」

この引用を書いているときに、浜崎あゆみの失踪事件とか、彼女の絶望三部作(vogueFar awaySEASONS)の時の歌の歌詞がそのまま浮かんできました。浜崎あゆみを知る人であれば、だれもがそうなるのではないでしょうか?だれもがこの苦悩を体験しうるのですが、私は、それをそのまま音楽にしているのに驚き、浜崎あゆみが到達しうる将来のありさまを感じました。そして、ファンとなったのです。私のホームページの中で、浜崎あゆみについてだけ「浜崎あゆみよ、風になれ」と命名した背景は、私がその音楽に驚いたときの印象そのものから名づけたものです。

自己が、心と身体を超えるとき、それまでの人生で知り尽くしてきたパーソナル(個)なものを、超越する準備が整います。ケンタウロスの段階は、それまで体験した中で最大の絶望と、それらを超越する喜びを知る、境界です。そして、それこそ現代社会の姿なのです。人類は、社会全体として、そうした段階に到達しつつあります。

実のところ、50年前でも、社会全体はケンタウロス的な位置にはとても到達してはいませんでした。社会全体の位置は、全体の総和の中で常に低くなります。しかし、個人のレベルでは、常に傑出した人たちがあります。神話的な世界観でしかなかった、2千年前の社会であっても、傑出した人たちは、そうした段階を遥かに超えていました。そして、そうした人たちが、現代においても社会の基本ルールである道徳の基準を社会にもたらしました。当時の世界観では、そうした人たちは「神」として理解されました。日本では、近代に至るまで、言い換えるとつい最近まで、社会的習慣として尊敬すべき人を神として祭っていました。東照宮には徳川家康が、明治神宮には明治天皇が祭られています。そして、現代において、それは記念として理解されています。おそらく、それらが祭られた段階であっても、記念として考えていた可能性が高かったと思いますが、現代よりは敬虔な気持ちも合ったのではないでしょうか。
この段階で陥りやすいトラブルは、すべてに対して虚無的な感覚を持つことです。なにが正義で、なにが悪なのか・・・。なにが幸せで、なにが不幸なのか・・・。宇宙は広く、この星はあまりに小さい・・・そして、自分はその中で、全く小さい存在だ。人生とは、なんなのか、すべてが無駄なのではないか・・・。このような疑問は、それまでの世界観から得ることはできません。

ケンタウロスの段階は、先進国においては、現代における平均的意識段階になりつつあると考えられているものです。率直なところ、全世界ではまだケンタウロスの段階には至っていないのではないかと個人的には思います。

そこにテロの時代の本当の背景があると思います。
そして、ケンタウロスの段階/パーソナルの段階を超えること、それがインテグラル・セオリーの段階に進むことです。インテグラル・セオリーにも多くの段階がありますが、これから述べる4つの段階に大別して理解されています。日本ではこれらをまとめてひとくくりにして、「悟り」と呼ぶ場合があるように思います。それがこれからお読みになる方にとって引っかかりになるでしょう。
日本においては、「悟り」の意味は古い時代に語られた意味のままに誤解されているかもしれません。それは魂の進歩の終りと同じような意味に思われているからです。たしかに古い時代の意識レベルではそれが精一杯でした。しかし、現代における意識レベルは昔よりも遥かに進展しています。現代においては「悟り」こそ、人の魂の本当の始まりなのです。それは、かつて偉大な宗教の創始者たちが語ったように、すべての囚われを断つことを、言い換えると、新たに誕生することを意味しています。

07
それまでの自分を超越する 超個/インテグラル・セオリーの訪れ

すでに述べたように、自己が心と身体を観察できるようになった段階、ケンタウロスは、それまでの観点からすると、あらゆる望みと希望を喪失した段階でもあります。

浜崎あゆみ作詞 CREA(浜崎あゆみ)作曲
Endless sorrow より

・・・・・
例えば信じるもの
何一つなくなったとして
例えばそこはただ
絶望だけが残ったなら
どうかこの祈りを
羽のない天使が
あふれている時代で
・・・・・

この状態は、より深い認識を自らのものにする時代の幕開けでもあります。
深く、精妙な認識は、静かに、そして控えめに訪れてきます。
それは、自然と接している瞬間に訪れ、ちょっとした時に気づくのです。
美しい海の中をボートで進んで進んでいるとき、
緑深い山の中を散策しているとき、
自身がその中に一体であることを実感します。
そのとき、自身とその自然には区別がありません。
自身が海であり、山でもあるのです。
それを感じたとき、自身の内部と外部の違いは、無意味となります。そして、不可分であることを実感します。このような感じ方は、すでに説明したような、そうした違いを認識することがない時代に立ち戻った状態ではなく、自身の内部と外部の違いを、超越した状態です。

それまで知っていた自己を、新しい自己として超越したこの段階を、オーバーソウル(超越霊魂)とか、ワールドソウル(世界霊魂)と呼ぶ場合があります。この用語は、アメリカ独立で精神的な中心であったことで有名なエマソンが使用したものです。そして、インテグラル・セオリーを説明するケン・ウィルバーの国でもあります。常に、言葉や文章による表現は、文化的背景の中で現れます。日本では、仏教用語で六波羅密の最も重要なものである般若(智慧)六波羅密(有名な般若心経が伝えているものです。実際には般若経には五十数品(経典の数え方の単位でぼんと読みます)あります)とか呼ばれたりしていました。しかし、今ではあまりこのような智識は日本でも説明されていないようですね。

この状態が、超個(インテグラル・セオリー)のはじめ、サイキック(心霊的)次元と呼ばれる段階です。
このように呼ばれる理由は簡単で、自然と自身が同一に見れる視点、つまり、心霊的視点に上っているからです。また、生態-認識的自己と呼ぶ場合もあります。

ところで、この用語はちょっと誤解されやすいので、ここでは小見出しの用語にサイキック(心霊的)という書き方をしませんでした・・・研究者の人、ゴメンナサイ。Webページはいろいろな人が見るので、書き方を噛み砕く必要があるもので・・・。

この段階では、自然と接したときとか、深い瞑想をしたときに、このような視点を得られるようになります。言い換えると、深い悲しみに沈んでいても、そうした環境で、自然と一体感を感じた後に、こんな風に気づくのです。「あれ、自分は悲しんでいたのに、すっかり忘れてしまっていた」。そして、人生の新しい活力を得ます。

余談ですが、段階に関係なく瞬間的に全く異なった段階の感覚が人に訪れることが知られています。この時の感覚は、人生で忘れることができないものとなることも多いのですが、その段階に留まれないのであれば、いいことばかりでもありません。そこに至る道を見誤る原因になる場合も少なくないからです。たとえば、「神を知った!」と、現状の自身を肯定する理由にしてしまったり、「自然は全てだ」と、歪な世界観で自然保護に走ったり、ややこしい問題のきっかけにもなるからです。どちらの場合も、自身の段階に固着するので、その行動には目を覆いたくなる場合ものが増えてきます。今では笑い話ですが、割り箸は自然を無駄にしているから使わないことがいいのだ、と信じて割り箸不買運動をする人がいたときがあります。その結果、林業は間伐材を売ることができなくなり、自然を保持するための林業にかえってダメージを与えてしまいました。幼稚な段階や知識の観点で信じる自然保護と主張する行動が、かえって自然を破壊に追いやるという例は、少なくありません。自然破壊の本当の原因には、そうした自然保護という名をまとった歪んだ世界観があるのではないかという見解があります。

実際のところ、自然と接してここで説明した感覚を得ることが多いのですが、厳密には自分以外のものすべて、これは他の人や文化的環境からも感じられる場合があります。この状況は、その人が置かれていた状況に従います。

浜崎あゆみの場合、ここで述べている感覚は、ファンや自分を支えてくれている人たちから感じているのではないかな・・・と私は感じています。

この段階において、人は自身の外にあるもの、自然や文化的なものと接したときに、それまで自身が知っていたものに属さない、超えた何かを理解し始めます。多くの場合、美しい自然の中などでそれに直面するので、自然神秘主義と呼ばれる場合があります。

浜崎あゆみが自身の苦悩を超越するために、自然に接することが少ないためこの段階で必用な触媒に相当する働きを自然から得られないので、どうなるのかと気をもんでいました。スタジオとライブ会場くらいしか行く場所が無さそうだからです。やがて、Evolutionを聞いたとき、ああ、ファンの中に活路を求めているのかな・・・それは苦悩の道かもしれないのに・・・と思いました。しかし、それは杞憂だったかもしれません。そう、感性が優れているならば、人の中にも同じものを見出すことができるからです。このタイプの展開については、現在知られているこの段階の研究のためのコンテキストが古い(宗教的コンテキストや哲学的コンテキストが多く使用されています)ので、これからの時代を知るためには不十分かもしれません。将来においては、これらのコンテキストにおいて、旧来とは全く異なる認識スタイルが多くなる可能性があります。

この段階に至り、人は非二元的な世界観、つまり区別無くすべてを受け止める魂の広さに気づき始めます。つまり、正邪を超えて、より高い世界へと昇りはじめます。ただし、この段階は、それに対する気づき、の段階です。

08
超えたものを実感する

人がサイキック(心霊)次元にあるとき、いつもそうした超越したものがあることを感じつづけているわけではありません。しかし、そうした段階が継続していると(率直なところ、かなりなテンションですね)、やがて自身の中にそうした超越したものを見出すようになります。
この見出し方は、自然と理解されるようになりますが、人により発現の仕方は自然とゆっくり感じていったり、激烈なイメージで訪れたりと、様々です。
それまでの自分をなにも失わず、しかし、新らしく見出した超越したものが自身の中にもあることを理解するようになります。ここに至り、人はこの超越したものを直接感じ理解する段階となります。このとき、どのように本人が理解するかは、その人の文化的背景、経験、知識により大きく異なっています。これは、主観的に理解されるものであるからです。そして、様々な事例から、個々人の違い、文化の違いを超えてこの段階があることが知られています。
かつて、神話的文化が中心的であった時代(だいたい2000年前からといわれています)には、神や天使の降臨や大日如来の来臨のように理解されていました。現代において同様な展開になる場合もあるでしょうが、日本人においてはこれらの文化的背景が薄くなってきているので、全く異なる理解の仕方が増える可能性がありますし、実際、増えているのではないでしょうか?
それは、科学的な教育を中心的に受けた私たちの場合、フィーリングに近く感じられることも少なくありません。ですから、そんな私たちの場合、微妙な幸福な気持ちの流れとか認識であったり、内面的な光や音であったり、愛と慈悲心の感動的な状態であったり、あるいはコズミックホラー(宇宙的恐怖/無限の宇宙に紛れて自分が失われてしまう恐怖/小説の世界では種族を超えた絶対的恐怖のこと)として感じたりします。

この段階は、善悪の彼方にあるので、これらの説明はちょっと不思議に感じられる方があるかもしれませんね。想像して理解することではなく、体験し実感することが、理解するためには必要です。想像して理解すること、つまり形式操作的思考は、至る道を探るだけに過ぎず、そこにあるものを見出した結果を得られないからです。

この感じられる形態は、その人がそれまで学んできたものにより形作られ感じられるものです。ですから、昔であれば、キリスト教徒であれば聖人や天使、キリストとして感じたり、仏教徒であれば、仏陀の顕現した姿や大日如来の来臨のように理解されました。
しかし、ここで感じられるものは、主観的事実として厳然として存在するものです。言葉や文化が異なっていても、さまざまな人々と文献が、この見つけ出したものを示しています。
繰り返しになりますが、このように、さまざまな受け止め方がある理由は、その見出している対象が、主観において解釈されなければならないものであるからです。この解釈を行うためには、その人がそれまで学んだすべてが動員されるために、人により異なった形になっていきます。
ここで見出した新しい自己は、それまでの自己とは異なるため、古い宗教的コンテキストにおいては「神我」と呼んだりする場合があります。このようにこの段階の認識が、神として認識されることが多かったため、神話的神秘主義とこの段階を呼ぶ場合があります。
人は、この段階にいたり、道徳や人の発想の原点と直面するようになります。
この段階に至ると、はじめて、私たちが現代も維持している道徳の原理、思想の原理の源泉と直面するようになります。過去に、さまざまな偉人が、時代を飛びぬけて到達し、より先に進んでいきました。彼らが得た、時代の意識よりもはるかに進んだ次元からのビジョンが、私たちの社会の基本的なルールの源です。
人は、なぜ世界に法則があると信じえるのか(科学が大前提にしている命題で、もっとも科学的でない命題です)、より正しいものがあることを信じられるか、その源を知ることとなります。
よく誤解があるのですが、このような認識において、それまで知っていた喜びや悲しみは超越されますが、別になにも失われるわけではありません。それまでどおり、怒り、悲しみ、喜びを感じます。それまで知っていた怒り、悲しみ、喜びが、その人の全てではなくその人を占有することはありません。そして、さらに昇華されて受け止められるようになります。

もしもあなたが澄みきった意識で、より低い状態あるいはたとえ汚れた状態に入っても、そのときの状態は意識に応じた知恵に変容する。
気づきをもって激情に入れば、慈悲心を見出し
気づきをもって怒りに入れば、明晰さを見出すであろう。

万物の歴史 p314でケン・ウィルバーが要約しているスーフィズムや仏教に見出される観念の説明部分を、ちょっと書き換えています。

この段階を、サトル(微細 と日本語では訳されています )次元といいます。その理由は、それまでの身体や心により構成された(粗い)自己よりも、より精妙なものに反応するようになっているからです。

ちょっと一息 「今の浜崎あゆみ」
このコンテンツを作成してから10ヵ月後の浜崎あゆみのインタビューをちょっと引用します。月間ザテレビジョン9/27〜10/31号 P11下二段目からの引用です。
強くて優しくて暖かい
そういう存在でありたい

 「Voyage」というタイトルをつけた理由なんですけど・・・。
 要は"みんな旅人だ"っていうことが言いたかったんですよ。旅の通過点、途中経過では、細々としたことがいろいろあるけれど--それは小っちゃくないかもしれないけれど--結局、自分がその旅を終えて、どういう旅だったかを考えたときに、自分が納得できるものであればいいなと思ったんですよね。そこに行くために、今、こうして歩いているようなものだと思うし・・・。
 そうやって考えるようになったせいなのか、最近は怖いものとかも、あんまりなくなりましたね。それで、もう、"私は点だ!"っていう感じなんですよ(笑)。宇宙から地球を見れば、そこにいる自分なんて点なんだって、なんか、そう思ったんですよね。
 その旅の先にあるものとして今ayuが思っているのは、強いものが見たいってこと。たとえば、夏はただでさえ暑いのに、エアコンの室外機だらけで、異様に暑くて、"私たち、どうなっていくの?"みたいな不安の中で、やっぱり弱いものを今はみたくないんですよね。
 でも、昔は、強いものは優しさに欠けているとか、強くなるっていうことは、小さな痛みにも気づかなくなっていることだっていう見方をしていたこともありましたよ。だから、強くなって、何も感じなくなるくらいなら、私は別に弱くていいと思ってたし・・・。
 だけど、今考えると、強くなりたくないという考えをもっていたのは、たぶん自分自身にすごく弱さがあるってわかっていたから、強くなれない自分に対して、言い訳みたいなものがあったと思って。それが、最近は、やっぱり"強い人っていうのは優しい"って、思えるようになりましたね。
 だから、強くて優しいもの、暖かいもの、そういう人をayuはすごく見ていたいし、そういうものに触れていたい。だから、ayuもそんな人間でありたいんですよね。たとえば、ステージにいても、ステージの裏にいても、ふだんの生活でも、いろんな人やすべてに対して強い存在でありたいと、今は考えているんですよ。みんながayuと一緒に立ち上がろうと思えるような、そんな存在でありたいって・・・・・・・。
インテグラル・セオリーの用語よりも伝わったりして・・・(^^;
"私は点だ"と感じること、「不思議な遠近法」と名づけられていること、そのものですね。そして、その先にあるものを強いものとして認識する・・・たいしたものですねー。人の意識の相は、今の時代、若い人でもこうした認識に至る時代になったのですね。次の時代への予感を感じます。

2002/11/25

09
超越したもの、それは自己であることを知る

サトル(微細)段階は、超越したものが自己とともにあることを理解する段階でした。ですから、超越しているものと、それまでの自己は明確に理解されていますし、また、実感としても分かれているものです。その段階を経ると、やがて自己と超越したものが全く同一であることを実感をもって理解するようになります。超越したものは、すべてのもの、人、文化に満ちており、それが自己そのものであることを理解するのです。なにものも分割されていないことを識ること、つまり様々な存在そのものを、そのままに受け入れ理解する段階に至ります。
この段階をコーザル(元因)次元といいます。
これらの次元は、様々な文化において、様々な言葉により語られています。私たちが良く知っている言葉もありますよ・・・。それを空といいます。

色即是空 (人が理解しうるものすべては空である)
空即是色 (空とは人が理解できるすべてのものなのだ)

摩訶般若心経の冒頭です。般若とは、知識という意味のサイスクリット語を中国語に訳した際に当てられた文字で、仏教教義の中核にある概念のひとつです。現代語訳は過去のものよりも今式にしてみました。過去に作られた名訳では色は物質として訳していましたが、現代の用語としては不明確で限定的なのです。現代の概念では色はホロンの概念がより正しく適合します。したがって、ここではホロンとして訳しましたが、ホロンという用語がなじみない方が多いので、人が理解しうるすべてのものとして口語風に訳しました。余談ですが、空は現代語ではスピリチャルとカタカナで書いたら今式ですかね・・・。

仏教において、コーザル(元因)次元に至った人を菩薩といいました・・・。
日本語で菩薩様というと、慈悲深いといったような、ある程度共通のイメージがあると思います。コーザル(元因)次元に至ると、激憤の感情は大慈悲心として発現するようになります。これは自然にそうなるものです。あらゆる苦しみや悲しみに慈悲の心で接するというのは、自然なことであり、ルールによるものではないのです。

10
人はすべてとともにある

コーザル(元因)次元にある人は、一見してよくわかるといわれています。あらゆる苦悩を止滅して、超越しているからです。さらに宗教的ないい方をすると、その人は輪廻のくびきから解き放たれ、自由になっています。そう、賢人とよばれるような人たちになるのです。宗教的な過去から積み上げられた様々なコンテキストには、それが至高であると語っています。しかし、それは人の魂の辿る最後の段階ではありません。
なぜならば、空はなにものとも別たれたことはなく、あらゆるものは超越したものと常にともにあるからです。これまで述べた様々な段階を理解し識別することは、それを知るための過程でもありました。そして、すべてを理解したとき、その人は自分がどのような状況になっても、なにも失わないことを理解しています。宗教的な用語を再び使えば、あらゆる苦悩の源である輪廻の中に、帰っていくことが出来ます。あらゆる迷い、苦悩を、それにふりまわされることなく体験することが出来るようになります。
チベット密教では、このようなあり方を以下のようにいうそうです。

オーム・マニ・パドメフーム

白き蓮の花は泥の中にあっても汚される事は無い

実は、この部分、20年くらい前に読んだ本が出典なのですが、うる覚えなので、ちょっと違いがあるかもしれません。ゴメンナサイ。
余談ですが、これを繰り返し唱えるとは、あたまの「オーム」という言葉が繰り返し聞こえるようになります。そのため「聖音オーム」なんていったりします。よく意味がわからない人には、呪文に思えるのでしょう。そう、これが、あの邪悪なオウム真理教に冠せられている、オウムという言葉の由来です。
日本で日蓮宗として有名になった、蓮華経という経典は、このようなあり方、すべてのものは、遠い未来(その真意は、今と同じでもあります)の彼方、善知識に拠るが故に、仏陀になると明らかにしています。仏教において、仏陀とは菩薩の彼方にあるもので、仏陀は大慈悲心をもって、私たちの世界に自ら現れると語っています。仏教の開祖である釈迦牟尼世尊(世尊て称号で世界が尊ぶという意味です)は、無数にいる仏陀の一人です。

ケン・ウィルバーは、このような自己のあり方を自身の著書で延々と説明した後、以下のように締めくくっています。

「禅は、もちろん、これらすべてをはるかに簡単に言っている。そして直接にこれを指し示す。

古池や
蛙飛び込む
水の音

ケン・ウィルバー 進化の構造Vol1 p489〜490」

この段階を、非二元段階といいます。
非二元段階に至った人は、激情に身を任せ、苦悩に身をおいても、それを超越してもいます。様々な欲望を止滅する必要もありません。なにものも、その人を犯すことが出来ないからです。
そう、この段階に至り、人はそれから続く長い発展と悔悟を繰り返す世界への、旅立ちの準備が整うのです。

03.05
浜崎あゆみを知ること

浜崎あゆみを知ること、それは、人の魂の軌跡を見ることです。
そして、そこに見出される真実の軌跡には、人の真実と魂の奇跡があります。
だれもが持つ、その奇跡があなたの中にもまたあることを見つめるとき、きっと世の中の様々な問題を私たちは将来において解決できるのだという確信を抱くことができるでしょう。

浜崎あゆみを理解することは
現代の無明の闇の深さと
そこにやがて現れてくる一条の光を知ることです


脚注1

アルケミストというベストセラーがあります。そのクライマックスのシーンからこのタイトルをつけました。
「少年は大いなる魂に到達し、それが神の魂の一部であることを知った。そして、神の魂はまた彼自身の魂であることを悟った。そして、一人の少年が、彼自身が、奇跡を起こすことができると、知ったのだ。
その日、シマム(砂漠の激烈な嵐)はかつてないほど吹き荒れた。その何幾世代にもわたって、砂漠の最強の首領に挑戦して自分を風に変え、軍隊の野営地をほとんど破壊した少年の伝説を、アラブ人たちは語り伝えることになった」
(「アルケミスト」パウロ・コエーリョ著 山川紘也、亜希子訳、地湧社、P184-5より)

脚注2

旧約聖書、創世記、第十一章、バベルの塔の一節です。

脚注3

ヨーロッパ諸国では、多くの言葉がありますし、ヨーロッパ人は2〜5ヶ国語話せる人が少なくありません。日本人にとっては驚いてしまうことなのですが、これには言葉の構造が似ているというキーワードが潜んでいます。イギリス人がドイツ語を学ぶことは、私たちが英語を学ぶよりも、遥かに容易です。言語が近いという背景には、歴史的経緯、文化的な相互交流(というよりも侵略ですけど)があることは、いうまでもありません。
逆に、日本語の構造が世界的には特異であるので、日本の文化的な独立性が世界的にユニークであることも事実です。でも、欧米人が日本語を難しいということを鵜呑みにしてはいけません。イギリス人がドイツ語よりも難しいというだけであり、日本語が難しい言語であるということとは、訳が違います。日本語がぺらぺらな外国人もたくさんいるでしょ・・・。言葉の構造が似ているのに、別な言葉を作っているほうが、変だと考えるのも、一興です。つまり、ヨーロッパの言葉というのは、日本の方言がうんと強くなったものだと考えるのも、面白いですよね・・・。

脚注4

Piajet,J,. 1896−1980 スイスの児童心理学者です。子供の研究から、世界観の変化を発見しました。


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